今年に入って東大の助教らが発表したリリースのタイトルが印象的で、ツイッターにメモしておいたのを読み返している。
生命の時間はガラスのようにゆるやかに流れる、というのがそれ。
ぼくたちの身体は生化学反応で成り立っている。食物からエネルギーを取り出し、五感からの情報を脳に伝え、フィードバック機構がはたらく。言ってしまえば、生きることは数えきれない化学反応を繰り返すことだ。
これら反応の多くは解明されていない。時間的には1秒以下のスケールで進む。
一方でぼくたちが生きている時間は、もっとスケールが大きい。たとえば体内時計は25時間だから10万秒単位。とすると化学反応の時間と5桁の溝がある。
ほんの一瞬の化学反応と、ゆったりした生体の時間。この溝がどのように埋められているか、コンピュータシミュレーションで明らかにしたのが、冒頭の研究だ。
ポイントは酵素反応を介在したタンパク質モデル。生体内モデルの古典だが、これをシミュレーションで解析した。すると、酵素反応は確かに速いのだが、反応が全体に及ぶまでに数十万倍の遅延を生むことが分かった。
反応が進めば進むほど酵素と結合しやすい状態の分子が増える。しかし初期の分子が酵素を独占するので、一定の時間が経つまで他の分子が酵素とほとんど結合できないのだ。
ここでおもしろいのが、この反応は対数的に変化するということ。最初はゆっくりだけど、ある段階から急速に進み始める(指数関数については先日コラムで紹介した)。
生化学反応は一瞬の反応を積み重ねつつ、ある段階から急速に進むようになる。その結果ミクロな時間が、生きている時間という巨視的な時間に転換される。この転換が、一次、二次と起こっているという。
ところでガラス。こちらは分子が液体のように無秩序でありつつ凍結した不思議な物質だ。
一般的に物質が液体から固体になる現象を一次相転移と呼ぶ。ガラスの場合はガラス転移とも呼ばれる二次的な変化があるらしい。
生化学反応に一次、二次があると書いたが、これがまさにガラス的というわけ。
もちろんこれはアナロジーであって、ぼくたちの身体がガラスだという話ではない。いや、ガラスは謎が深く、身体内の活動を一種のガラスと表現することが完全に間違いかというと、そうとも言い切れない。
むしろ、そう考えておこうか。心が折れやすいのはガラスの身体ゆえと思えば、強がる必要もないではないか。
東大のリリースは、「生命の時間はガラスのようにゆるやかに流れる」です。
ところでガラスと言えば、「光を止める(2001.2.19)」で触れた「スローガラス」を反射的に思い出してしまいます。