小橋 昭彦 2013年1月7日

ちょうど一年前のコラムで、ダンバー数を紹介した。ひとつの組織として最適な構成員の上限は150人といった形で引用されることが多い。ソーシャル・ネットワークの広がりとともに、聞く機会が増えた言葉だ。

ダンバー数の根拠になっているのは、霊長類の大脳における新皮質が占める割合と、その群れの構成数を調べたロビン・ダンバーの論文。新皮質割合が2.65のゴリラなら35の個体数、3.2のチンパンジーなら65、そして4.1のホモサピエンスは150となっており、新皮質割合が多い種ほど、構成数も多い。

脳はなぜ進化したのか

この結果を言い換えると、群れの数が多いほど、新皮質が発達していることになる。社会生活の大型化が、霊長類の脳を進化させてきたのではないか。これが、論文のタイトルにもなっている「ソーシャルブレイン仮説」という考え方だ。

この考え方は、別名、マキャベリ的知性仮説とも呼ばれている。マキャベリズムといえば「目的は手段を選ばず」という言い回しで知られる。権謀術数を凝らして出世を図る、その種の努力が脳を進化させたという含意だ

権謀術数というとマイナスイメージもあるから、ダンバーが2007年に発表した論文では、一夫一婦制が脳の進化に役立っていると書いていることを補足しておこう。シンプルな夫婦関係の方が脳を進化させるとは意外かもしれないが、恋煩いの数々を思い起こせば、それも納得できる。どの異性を選ぶか、相手はどのように考えているか、不倫していないか、などなど、異性が複数でいいなら悩むこともない。

思春期に恋愛のことで頭がいっぱいになるのも、脳を成長のためと考えれば喜ばしい。ロンドンのタクシーの運転手は、経歴が長いほど海馬が大きいという報告があって、これは複雑なロンドンの街路を把握するために、記憶に関係する海馬が大きくなったものらしい。最近は二次元キャラ相手の単純な恋も耳にするけれど、さて、それで脳は成長するのかどうか。もっとも、そういう人たちは子孫を残さないので、人類の脳の進化には影響せず、心配無用かもしれない。

ソーシャルブレインとデカルトと

話が逸れた。恋に見られるように、相手を思いやる力こそが、ソーシャルブレインだ。仮に社会との関係が脳を進化させたとなれば、哲学的な見方からすれば、デカルトへの異議申し立てだろうか。

有名な「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉にあるように、純粋な「思惟」を想定するのがデカルト的立場とすれば、ソーシャルブレインは、「他者あり、ゆえにわれ思う」とでも表現できそうだ。純粋な自己なんてない、ぼくたちの脳は社会との関係性の中で進化し、成長しているのだと説く。

実は、ぼくがこの分野に関心を抱いたのも、こうしたエコロジカルな視点に興味を抱いたからだった。明治以降日本に生み出された「個人」という概念、もっと言えば、「自分らしさ」にどんな意味があるのか、ぼくにはよくつかめなかった。パーソナリティとかキャラが立っていると言っても、相手があってのことではないか。

デカルト的な世界観を表現している映画に、『マトリクス』がある。世界のすべては自分の観察の中にあるという見方で、手で触れるもの、舌で味わうもの、耳で聞くもの、すべて脳が処理した「幻想」に過ぎない。

一方で、世界は実在する、そして世界の中に意味が含まれている、とする考え方もある。こちらは心理学者のギブスンらが提唱している、アフォーダンスという考え方。以前のコラムでもとりあげたので詳しくは触れないけれど、たとえばコーヒーカップの取手には「指を差し入れて持ち上げる」という意味が含まれている。

どちらをとるかと言われれば、ぼくは田舎に住む者として、世界の実在を信じたい。世界に書き込まれた情報が世代から世代に受け継がれ、それゆえに里山は人を孤独から救うと。

個人と社会の関係

哲学者の河野哲也氏の著書に、「個人主義は、近代的な人権思想そのもの」とあった。明治以前の日本社会に存在した、強固な制度を打ち破り、自由な意思を持ったひとりの市民としての人間に焦点をあてるために、「個人」は生み出されたのだ。

ルソーは社会契約論において、個人が互いに契約を交わして「社会」を成立させると説明するが、これはある意味モデル化のための方便で、たまたま読んでいた経済学者の猪木武徳氏の著作でも触れられていたが、歴史的には「社会」が「個人」に先立って成立している(サル山のサルが契約のもとで集団を形成しているのではないように)。

そうした本来的な意味合いを思い出すなら、「個人」とは、自らの内面を探る先にではなく、社会と切り結び、間合いをはかった先に存在するはずだ。

もうひとつ、ソーシャルブレイン研究の藤井直敬氏の著書で紹介されていたサルを使った実験に触れておきたい。

二匹のサルの間にリンゴを置いて、脳の動きを計測しながら反応を探った実験だ。

相手がいないとき、あるいは相手との力関係が明らかでないとき、サルは自分が「強い」サルとしてふるまう。ところが、自分より格上と分かっているサルが隣り合わせると、すっと切り替えて「弱い」サルとしてふるまうのだ。このとき、前頭前野と頭頂葉の神経細胞も、「強い自分」「弱い自分」に応じて変化している。

つまりサルの脳は、デフォルトの状態では「強い自分」モードなのだけれど、強い相手と関わる場面では、「弱い自分」モードに切り替えているのだ。ヒトもこの延長にあると考えるなら、社会性の基本というのは、相手に応じて「自分を抑制すること」であるらしい。

抑制すること

子どもが学校へ行くようになって、あるいは母校の高校評議委員など務めさせていただいて、わが地域の子どもたちの平均勉強時間が、少ないことを知った。

それに対して「勉強しなさい」と言ったとして、それは有効なのかという思いを一方で抱いてきた。むしろ重要なのは、「勉強をしない」誘惑に勝つ心の強さであるような気がする。目標を持たせることの意味も、目標に向けて学ぶ意欲をかきたてるためにではなく、目標を達成するために何かを我慢する抑制力としてあるのではないか。

ぼく自身、かつては毎日書いていたコラムを、今ではこうして半年に一度ほどしか書けていない。恥ずかしいことを書くが、そんな自分にとって必要なのは、「書こうとする努力」ではなく、「書く以外のことを抑制する」ことであるように感じている。

 

メールマガジンを発行しはじめてから、今日で15回目の創刊記念日。コラムを書きながら子ども時代に学んだ懐かしい言葉を思い出した。「臥薪嘗胆」である。

年男でもあり、原点に帰って、今年は地道に自分を磨こうと、そんな思いで迎えた新年。年明けて「今年はどんな楽しいことをするの」とお尋ねいただいた方もいらっしゃいますが、ごめんなさい、そんなわけで今年のぼくは、臥薪嘗胆モードで励みます。

本年も、よろしくお願いいたします。

2 thoughts on “ソーシャル・ブレイン

  1. ソーシャルブレインに関する参考書籍を紹介しておきます。日本ではコラムでも紹介された藤井さんが先駆的な研究を重ねられていて、『ソーシャルブレインズ入門』『つながる脳』を著されています。個人的には、後者が、研究者としての考え方も披露されていて、興味深く読みました。

    ロンドンのタクシー運転手さんの話ほか、ソーシャルブレインの入門には『社会脳の発達』がおすすめです。自閉症との関係についても踏み込んで書かれています。また、論文集としては『ソーシャルブレインズ―自己と他者を認知する脳』があります。コラムでも触れた哲学的な視点については『<心>はからだの外にある』を参考にしました。これは「アフォーダンス」をもとにする著書ですので、コラム「アフォーダンス」もご参考にどうぞ。その他、『エモーショナル・ブレイン』なども参考にしました。なお、コラムで引用したルソーのくだりは、猪木武徳『経済学に何ができるか』より触発されました。

    ダンバーの論文は、「The social brain hypothesis(Evolutionary Anthropology:Volume 6, Issue 5, pages 178–190, 1998)」「Evolution in the Social Brain(Science 7 September 2007:Vol. 317 no. 5843 pp. 1344-1347)」をどうぞ。

  2. 2013年1月07日 【コラム】ソウシャルブレインに関するご紹介の本を読んでみようと思いました。今興味を持って読んでいるのは、村山斉「宇宙は本当にひとつなのか」とかヒッグス粒子の話とかです。311以降あまりにも早い情報・科学・物事の価値観・社会経済・政治・世界情勢の流れの中、もう少し根本的な、もっと深いところからの歴史観・世界観が自分自身に持てないのか、時々毎日の仕事・業務に追われながらも通勤電車の中で考えています。

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