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ちょっと知的な雑学&トリビア

恐竜の卵は鳥のように2個

2005年4月16日 【雑学なメモ
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リンク: Egg-Citing Discovery: Dinosaur fossil includes eggshells: Science News Online, April 16, 2005.

The pelvis-filling volume of the eggs also suggests that the dinosaur could carry only two eggs at a time, says Sato. The similar size of the two eggs hints that the creature had two oviducts that produced one egg each and did so simultaneously.

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 縄文の火焔型土器や古墳時代の埴輪など、考古学では人工的な遺物に関心が集まりがちだ。でも古代の人々の生活や文化を知るには、彼らがどのような気候や自然の中で生きてきたかが問われる。そうすると、種子や動物遺体などの自然遺物にも関心を払う必要が出てくる。それが、環境考古学だ。 環境考古学では、土器についた種子や貝塚に捨てられた骨なども分析の対象になる。動物学や植物学、生化学や病理学などの知識も必要だ。親しみやすい事例としては、トイレがある。縄文時代初期のトイレは、集落の周辺で用を足し、自然の分解作用にまかせていたらしい。その分析からは、回虫が弥生時代に持ち込まれたらしいことなどがわかる。その弥生時代、糞便は集落を囲む環濠や河川に垂れ流した。汲み取り土抗式トイレが登場したのは七世紀の藤原京で、糞尿を周辺の農民が肥料として引き取るしくみもできていたのではないかとされる。トイレ跡にはアカザやヒユといった草本類の花粉や種子が多数含まれるという。考古学の松井章氏は、漢方あるいは和方薬として花を食べていたのではないかと指摘している。健康への気遣いは古代から変わらないということか。 環境考古学という言葉を知ったのは、安田喜憲氏の著書によってだった。梅棹忠夫氏による「文明の生態史観」とも呼応しつつ、日本人は森の文明と述べる安田氏。最近になって松井氏の著書を読んだとき、ゴミ捨て場やトイレなどを語るその視点と、地球環境まで視野に入れる安田氏による「環境考古学」がつながらなかった。いまあらためて二人の著書を並べて、ああ、トイレの遺構に発見した種子から当時の食卓を類推し、植生に思いを馳せる視点は、そのまま古代の森を思い描き、文明論を語るところにつながると気づく。そのつながりにはじめ気づかなかったということは、ぼく自身の想像力がさびているということかもしれないと自省したことだった。

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 幼い子を叱るのは難しい。ダメと言うだけでは怒っているにすぎないと「そんなことをしたらお母さんが悲しむよ」と言ってみる。一方で、他人の気持ちを察するのは3歳の子には難しいとも思う。上の子が4歳のときだったか、「他の人の気持ちを考えなきゃ」と叱ったら「大人の言うことは難しい」と返されたことを思い出す。ちょうど心の理論を身につけ始める頃で、それゆえに難しさを実感したのだったかもしれない。 他者が自分と違う意識を持つと自覚し、それを察しようとすることを「心の理論」という。心は、直接知ることはできない。他者の言葉や仕草から仮説を組み立て、だからこうだろうと予測するほかない。この流れが科学理論に似ているところから、心の理論と名づけられている。 誤った信念課題と呼ばれる実験がある。子どもの前に赤い箱と白い箱を置く。先生が赤い箱におもちゃを隠して教室を離れる。その間に、別の誰かがおもちゃを赤い箱から白い箱に移す。帰ってきた先生は、おもちゃを取り出すためにどちらの箱を開けるだろう。幼い子は、先生と自分を分けず、白い箱と考えてしまう。大人のように赤い箱と答えるのがだいたい4歳くらいなので、そのくらいが心の理論を身につける年齢とされている。 もっとも、つい最近の実験では、15ヶ月の幼児でも誤った信念課題に正しく答えたという結果も報告されている。また、動物が心の理論を持っているかも研究課題だ。端的な実験としては、相手が指差した方向を見るか、などがある。チンパンジーは持っていそうだがサルについてはあやしいと言われるけれど、議論が続いているようだ。 あらためて振り返ると、ぼくたちは心の理論を持つからこそ、あの人は自分をどう思っているだろうと恋に悩むこともできるし、相手を傷つけないようにと自分を抑えもするのだ。それは、なんて特別なことなのだろう。

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