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ちょっと知的な雑学&トリビア

2つの言語習得理論

2017年4月20日 【雑学なメモ
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(1)チョムスキーの普遍文法

言語の基礎はすべての子どもが生まれながらに持っている一連の規則であり、この規則から文法に合致した分が作り出される。

 

(2)用法に基づく学習

子どもたちは他人が何を考えているかを直感で知るの力を生まれつき備えており、言葉を聞くことを通して別の分に適用可能な用例のパターンを学ぶことで習得する。

 

現在ではチョムスキー説は分が悪くなっている。

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芽ではなく、正しく眼の話。植物に視覚があると言われると、野草や木々に囲まれて暮らしている身としては落ち着かない。ここ数年「ものを見る植物」という考え方が浮上してきているという(日経サイエンス2017年3月号)。

チリなどの温帯多雨林に生息するつる性植物には、巻き付いた宿主の葉に似た色や形に「変身」するものがある。仮に「見る」ことなくそれを実現しているとすればどうしているのか。「見て」真似していると考える方がいいのかもしれない。

人間の眼は水晶体を通した像を網膜に映している。2016年には単細胞生物のシアノバクテリアが、その身体自身をレンズにして光を感知しているという研究結果が発表されている。

植物にも光受容体はある。しかしレンズとなると、まさに眼だ。同じような機構が、より高等な植物でも進化しているのかどうか。

気になって調べてみると、すっかり忘れていた、何年か前のNHKスペシャルで「そして”目”が生まれた」をやっていた。その中では、植物が持っていたロドプシン遺伝子を動物がもらったことで、目が生まれたという説が紹介されている。

目を持たない原始のクラゲのような動物が植物プランクトンを食べたとき、植物の細胞が生殖細胞に入り込み、DNAが混ざったのではないかという。であれば、わが眼の存在も植物由来ということになる。

それにしても。仮に植物に眼が備わっていたとして、その視覚情報はどのように処理されているのか。それは果たして「見ている」と言えるのか。

植物の視覚を掘り下げていくと、「見る」とは何かという哲学的な問いにつながる。さて、わが眼は世界を「見て」いるか。ふしあなになっていないか。

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