小橋 昭彦 2008年7月19日


 こちら丹波市でも恐竜化石が見つかって、以来ちょうど2年になろうとしているのだけれど、なんだか盛り上がっている。
 盗掘などの心配があったため、一般に公開されたのは発表から半年たった昨年の1月だ。ティタノサウルス類ではないかと思われ、しかも全身の骨格がほぼもとのまま出てきそうな様子だという。
 さっそく、発見者が「丹波竜」という名を与え、市が商標登録もした(そのときぼくはドメイン取得を市に薦め、現在活用中だ)。近所の人たちが交代で現場を監視したり、見学者への対応をしたりしている。丹波竜を名づけた饅頭やうどんが発売され、Tシャツが作られ、発掘現場の石を封入したお守りが人気を呼び、JAは記念定期を始めて集まった資金の一部を寄付。
 丹波竜にとっては、発見後、国立科学博物館じゃなくて、兵庫県立の人と自然の博物館に持ち込んだことが良かったと思う。博物館側も、地元の資源としてどう考えるかという視点で、考えてくれる。
 とはいえ、ぼくたちは恐竜のことを何も知らないんだな、と感じることは多い。こういうぼくだって、恐竜が何かを知ったのは、子どもが生まれて後、この十年くらいのことだから、恥ずかしい限りである。
 本書は、「8000万年」前の地層から見つかった「クビナガリュウ」の話だ。発掘に携わった研究者が、自ら現場のことを記している。
 で。首長竜の話なのであって、恐竜の話ではない。そもそも日本ではここからして勘違いされる場合が多い。恐竜というのは陸生生物であって、首長竜のように海で泳ぐ爬虫類とは別。子どもたちに大人気のアニメでさえ、映画化第一弾となった人気作で勘違いを生みそうな表現をしているのだから仕方ないとはいえ、ね。
 ついでに加えておくと、プテラノドンなどの空を飛ぶ爬虫類も、恐竜ではない。
 丹波でも、そんな勘違いは多い。この間行われた俳句ラリーの優秀作も、「青丹波 首長竜が いたらしい」であった。恐竜がいる環境に首長竜がいるとは思えない。作者は知らずに詠んだか(としても作者に責任はない)、知っていて、丹波の浮かれぶりを皮肉を込めて詠んだか。
 草食恐竜の首の長さを「首長竜」とたとえることを文学的表現と考えてもいい。想像力そのものはたいへん結構。しかし、たとえば水族館で子どもがイルカを見て「うわあ、大きな魚」と言ったら、親としては「あれはね、魚じゃなくてほ乳類なんだよ」と教えてやるのが科学的態度じゃないかと思うし、だからこそ「どうして似ているの」など科学の不思議が生まれる。
 せっかく本物の恐竜が発掘されているのだから、そうした科学的態度をたいせつにしたいとも思うのだ。
 それから、今丹波竜キャラクターを募集しているけど、そもそもキャラクター化して遊ぶっていう考え方が、危ないような気もするよね。おまけに、今丹波市であふれている恐竜キャラクターは、背中がこぶのようになって、首がぐにゃりとヘビのように曲がっている、そんな軟体動物のような姿だったりする。背骨の構造を考えれば、そんなのありえないんだけどね。まあ、これも芸術的表現と考えるか。
 で。芸術的表現をしたり、キャラクター化したりっていう遊び心も大切だし、決して否定するものではない。いや、むしろそうした創造性こそたいせつにしたいとも思う。
 ただ、せっかく本物の化石があるのだから、ぼくたちはやはり、本物の知識を忘れないでいたい。そうした正しい知識を押さえた上で、芸術やキャラクターに向かいたい。
 そんなことを思う。
 長谷川さんは、フタバスズキリュウを論文にし、「フタバサウルス・スズキイ」という学名を与えるまで、40年かかっている。さまざまな理由があったとはいえ、論文を書くというのは、それほど手間のかかるものなんだということ。
 恐竜というロマンの向こうに見える、学者としての真摯な姿勢が、行間から読み取れる。まちおこしという名にとらえられて見えなくなってしまいがちな、たいせつな何かを教えてくれる書籍だ。

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