できるだけ使わないようにしている、と知人の社会学者が言っていた。それほど便利でなんだか納得した気になってしまうからと。
ミームという言葉は、リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』で提唱した用語で、生命のように文化も進化しているとするなら、遺伝子にあたるものがあってもいいとして、それをミームと名づけた。
遺伝というからには、3つの条件を備えていなければならない。第一に、変異によって多様性が生まれること。第二に、それらすべてが生き延びることはできず、選択(淘汰)されること。第三に、それが伝達される過程が存在すること。そう考えるなら、なるほど文化も遺伝する。つねに新しい発想が生まれ、それらの中には広がるものも忘れ去られるものもあり、人から人へ、あるいは書物などを介して模倣され伝わっていく。
生物学で「互酬的利他行動」を唱えたのはトリヴァースだった。他者のために犠牲を払っても、最終的に自分のためになるという理論。親は子に尽くすことで、自分の遺伝子を残す可能性を高めているといった見方ができる。もちろん個々人はそんな打算で行動しているわけじゃないのだけれど、利己的遺伝子の視点で説明するならそう表現できる。
同じことはミームにも言えて、ぼくはときどき便利に使う。ボランティアするのはミームを残すためと考えたり。誰かに助けられたら、その人の話を聞いてみようって気にもなるだろう。人助けをすることで、自分の持つミームを伝える可能性が高まるわけだ。
もちろん、そんな説明はなんだか味気ない。味気ないけれど、そう考えておけば、これだけ尽くしているのだからなんて思いが芽生えることもない。むしろ、受け入れてくれたことに感謝する。
まあ、要するに古くからあることわざを、ちょっと科学的に言い換えているだけのことなんだけどね。そう、「情けは人のためならず(自分のため)」って。
スーザン・ブラックモアの『ミーム・マシーンとしての私(上)』『ミーム・マシーンとしての私(下)』がお薦めです。
日本では、『遺伝子vsミーム』などを著されている「佐倉統」教授が有名。(直接関係無いけど、「リビングサイエンス宣言」もまた気になっていたり)
なお、互酬的利他行動に関しては、かつてのコラム「助けあう理由 [2004.09.30]」をご参照ください。また、最近では日経サイエンス掲載の「動物たちの行動経済学」が同テーマを扱っていました。
小橋さん、「ミーム」のことを書いて頂き、ありがとうございます。
外人に言われるまでもなく、日本には地域固有の「ミーム」が残っています。わたしはこれを「日本的地域感性」と呼んで、学術的な研究を行っているところです。
ただ講、組、座、無尽などという助け合いの文化が、明治以降の急速な西洋同化によって、今、忘却の危機を迎えようとしています。情報通信技術を以て、日本の地域文化のミームを復興させ、新しいコミュニティづくりに応用していきたいものです。
「情けは人のためならず」
実感したのはボランティアを始めてからでした。
ミーム?
そんな言い方があるですねぇ
私は大分に住んでいますが
方言と言う地方文化を大切に残して行こうと
思っています。
子供の頃祖父母と同居でしたので
方言の中で育ちました。
今はそのまま娘に伝えています。
雨んふる日は ヨダキーのぅ
これかり ツユになるでぇ
ヨダキー日がつづくかのぅ
本日九州地方はあちこちで雨が降っております。
納得.
んー勉強になりました。
こたつねこさん、ありがとうございます。そうか「ミームネット」でしたね! 先日の研究会で地域情報化をミームを少々からめてお話したところでした。拙稿、メールさせていただきます。
ようさん、ありがとうございます。
> 方言と言う地方文化を大切に残して行こうと
たぶん、いま各地で、淘汰されつつあるミームの反乱(?)が起こりつつあるのかもしれません。
そういう視点からメディアをからめた提言としては、水越先生の『メディア・ビオトープ』が面白かったです。ミームという用語は使われていなかったかなとも思いますが。
文化の遺伝子ですか。おもしろい考え方ですね。この本を読んでみようかな。(でも財布がピンチなので・・・)
PTAの役員をしていますが、子孫が自分たちの文化を受け継いで育ってほしいという行動もみーむ。かな?
ポケットに0入れた0♪(これ以上書くと問題がでそうなので…)
私が始めて「ミーム」という言葉を聞いたのは、「ミームいろいろ夢の旅」というテレビ番組ででした。。
http://www.age.ne.jp/x/taiku2/meme/me_index.htm
ここ暫らく、この番組の様な、子供向けの良質のテレビ番組が放送されていないのも、理科離れの一因ではと考えてみたりして…
昔は結構あったんですけどね。
「野生の王国」や「すばらしい世界旅行」も捨てがたい^^
メディアのパーソナル化が進めば進むほど、人とコミュニケーションを取らなくても自分で楽しめる訳で、益々コミュニケーションを取らなくなる。同じメディアでも、社会の中で数十軒に一軒ラジオが入った、テレビが入った、それだけで人が集まった。でも、パーソナル化が進めば進むほど、コミュニケーションは取らなくなる。
メディア自身がコミュニケーション機能を持ち出すと、コミュニケーションを取りたかった欲求がある程度満足された。いわゆる、ネットでコミュニケーションツールであるメール・掲示板・チャットなどがそうである。こちらもひとつの掲示板ですね。でも、オフライン実社会でコミュニケーションが取れたらいいに越したことは無い。そういう願望は持っているけど、どうにもならなくてあきらめている人も多い。ガキ大将を中心とした子供たちのグループ、部活、青年団など、地域独特のコミュニケーション集団と別に、このようなコミュニケーション集団もあった、と残念ながら過去形となる。部活も学年の違いを鮮明にできた頃は良かった。今は、学年が違っても友達同士のようね話し方をしているんでしょう。ボランティアはある程度この要求を満足しようとする、ひとつの形かもしれない。和歌山に行ったとき、地域活動において異世代の交流を目指したポスターが目を引いた。通学路における児童の安全を守るために、老人会などがボランティアで立ち上がった所もある。
僕もミームと聞いて、ミームいろいろ夢の旅、を思い出しました。思えば昔は理科大好き少年でした。また、あのような番組が出来ないものでしょうかね。