ずっと気になっていながら、どう書けばいいか見えなかったテーマが、今回書こうとしている「無い」だ。学生時代に陽電子は「無い」の別表現と知って以来だから、ずいぶん長い話になる。
物理学者のディラックは、真空は何も無い状態ではなく、負のエネルギーを帯びた電子がぎっしりつまった状態だと考えた。「ディラックの海」という名前で知られている。この海に充分なエネルギーを与えれば、負の電子は正のエネルギーをもって飛び出す。このとき、ディラックの海には飛び出した電子ひとつ分の空孔があく。ぼくたちは負のエネルギーを観測することはできないけれど、この空孔は観測できる。負の電子とまったく反対の性質を持つ「陽電子」として。
空孔理論とも呼ばれるこの考え方に、ぼくは空白の魅力を知った。ぼくたちはふだん実体のあるものだけを見てしまうのに、ディラックの海では空白に意味が生まれる。陽電子を説明した入門書には、人間が係長から課長、部長へ昇進すると見るのではなく、ポストという空席が部長から課長、係長へ下がっていくと考えることもできるとあった記憶がある。
飛行機は揚力によって浮かぶ。揚力は、翼を持ち上げる力ではなく、翼の上面にできる負の圧力が翼を吸い上げる力と考えた方がいい。翼の上面の方が空気が速く進み、圧力が低下するのだ。これもまた、無いことの方に意味があるといえないか。同様に、子どもと絵本『かぜはどこへいくの』を読みながら、この問いかけはロマンティックでありつつ科学的かも、と思ってもいた。温められた空気が上昇して気圧が低下する、そこに空気が流れ込むのが風。ぼくたちはつい「風はどこから」と考えてしまうけれど、生まれるのは風ではなく気圧低下なのだ。
ふと気づく。「無い」というテーマを引きずっていたのも、そこに何かを付け足して生み出そうと考えすぎたせいではなかったか。求めるもの、足りないものがあることを楽しむなら、自らが風となることもできたはず。
飛行機が飛ぶ理由については「航空工学を巡る冒険」がいいですね。絵本『かぜはどこへいくの』も、よろしければどうぞ。
銀色夏生の「星々のあいだ」を思い出しました。
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>星と星のあいだにあるのは
>まっくらやみではなくて
>ただ見えないだけでたくさんの星
—
の3行で始まる詩は、「無」に改めて目を向けられたきっかけでした。
うーん、それだけ。
「無い」ぼ意識を現在の社会に置き換えて読んだ。
有り余る豊かな物質社会で失われた「有る」有り難さ。過剰そのものの福祉、弱者と称する怠け惰民タカリヤ、もともと無ければ集れないが有るが故のバラマキタカリ。
負の圧力が社会民族を高揚させるだろうが、今は下降線を辿っている様に思う。
民族の歴史を見れば総ていつか来た道だろうが。
こんにちわ アイデアマラソンの考案者の樋口健夫です。先日、小橋さんの本を買いました。
今回の話の無のことも、すごく面白いですね。うなりました。私のアイデアマラソンでは、脳の中に思っていることを、全部吐き出してしまったとき、つまり脳のUptodateの思いつきを全部書き記したときに、脳はその空白部分を埋めるべく動き出すのではないかと思っています。いつまでも古い発想を温存している限り、新しいものがでてこないということです。
今、東京駅の喫茶店からこれを送っていますが、小橋さんの話はエスプレソを飲むには最高です。
「無い」というテーマは、社会的にとらえようとするとどんどん広がります。ぼくもコラムを書くにあたってそこまで広げかけて、扱いきれませんでした。
いわゆる近代化は「無いもの」を求める過程と定義できるかもしれない、という思い。風が低気圧に向かうのは自然だけれど、人間が無いことを求めるのは、過剰に走っていないかという思い。
ともあれ、あることだけに価値があるのではないことは確かだと。
ところで、コラムでは「無い」と表現しましたが、実際のニュアンスは「空(から)」に近いです。「空」と「無」では意味が違うわけで、正確に言うと、コラムではそれをひっくるめております。あしからずご了承のほど。
“ニホンオオカミが絶滅した”ということを証明するのは非常に困難です。犯罪現場に“自分が居なかった”ということを証明するのには、“別の場所に居た”ということでもって代替的に行います。「無(空)であることを示す」ことの難しさ、さらに一歩進んで「無や空にこそ、積極的に意味を見出す」なんて、色即是空ならではの東洋的な発想なんでしょうか。でも英語にも、Nobody knows.なんて表現がありますしね(笑)。
全然関係ないですが、最近特に「ぼくたちは」という記述が多いですね。
だからどうしたと言うことはないのですが、その頃から締めが強引になってきた気がしたもの。
気に入った内容は全部置いていまして、2002年や2003年の内容はかなり置いています。
読み返しても読みふけってしまうんですが、最近はどうも・・・
批判でなはなく、愛読者としての意見です。
こちらからうまく投稿できなかったということでメールで感想をいただきました。おもしろい話なので、転載させていただきます。
(以下Nさんからのメールです)
短大時代に、キリスト教学の先生が「神は『余白』です」とおっしゃった。神様が中心ではなく余白って?・・私は宗教を持ってはいないけれど、ずっと気になっている言葉です。
このコラムを読んで神さまが「無い」を存在させ、その「無」から神の愛がはじまるのかな・・ということを考えました。
そういえば、以前ケイビングで洞窟にもぐったとき全く光のない、音も無い、真の暗闇で何も無い・・というよりも圧倒的な無の「存在」を実感したことがありました。
それから、Wさんからはバックミンスター・フラーに同じような言葉があることを示唆いただきました。ありがとうございます。
隙間風は建物に吹き込むのではなく建物に吸い込まれているのだ、といった表現だったようですね。
無にこそ意味があるとするなら、数学ですね。
0=無を発見したときに初めて数学が生まれたと言われますから。
プログラムに於いては、0は無ではなく0で、nullという無があります。
何かが終わったという判断でとても大事な物です、思わぬ所で悪さをする奴でもあります。
日本語の「空」と英語のFREEDOMがかなり近い概念だと
言う説を聞いたことがあります。
「無」の存在ということで言えば、半導体の「正孔(ホール)」も似たようなものですね。(「ディラックの海」や「陽電子」の方が神秘的な感じがしますが)
ポストの空席という考え、面白いと思いました。
揚力については、ちょっと他の話とは異質な感じがしますが・・・。
「空」とFREEDOMが近い概念というのは興味深いです。確かに、それは鋭い。某国首脳に伝えたい。
ところで、ヴェスパさんのおっしゃるように、「ぼくたち」という表現をけっこう使っています。「人は」「人間は」と書くと偉そうなので身近に落とし込んでいる結果で、ある意味意識的に行っているのですが、違う視点で考えれば、まだ自分を「空」にできていないのかなあ、と反省しています。今後、避けてみます。
今日の話は大変面白かった。少なくとも一瞬、アタマの中のドロドロを掃除してくれ、ちょっと空の部分をつくってくれたのか、今寝起きですが、顔を洗う前にスッキリさせてくれてありがとうございます。
皆さんのような理屈はわかりませんが、モノの動き、人の動き、自然の動きをそうして眺めるとまるで仏様になった気分で朝からサトリを開き気持ちよく、今日一日出会う人々や風景が違って見えることを期待しています。。
英国のチャールズ皇太子が若かりし頃、来日して、
かなり高位の禅僧から「空」について講義を受け、
最後に、”It” s Freedom!” と叫んでその禅僧を感心
させたと云うお話です。
ある発想法の大家にお聞きしました。
小橋さんの詩的な文章に突っ込むのは無粋だとは思いますが、やはり解釈やリーズニングが間違っていると雑学としてどうかと思ったので指摘します。
[空孔理論]
空孔理論は、量子力学において電子の間の相互作用を考えるためにディラックが考え出した屁理屈です。彼の立てたディラック方程式を解くと、負のエネルギーを持つ粒子が別解と出てきてしまい、これが大問題になりました。なぜならば、物理学はエネルギーが低い状態が高い状態よりもデフォルトな状態だと考えますから、デフォルトな状態である「真空」が、負のエネルギーで満ち溢れているとなるわけです。それで、仕方なく「ディラックの海」という解釈をしざるを得ませんでした。また、空孔理論は空孔を積極的に解釈するわけではありません。電子が生じるためには「仕方なく」ディラックの海に「空孔」がなくてはいけないのです。
あえて大げさに言うならば、方程式の負のエネルギー問題を回避するためには真空が負のエネルギーで満ちているというディラックの海を仮定しなければならず、電子を生成するためにはディラックの海から空孔ができなくてはならず…というような桶屋の論理が正孔理論です。現在では、このようなディラック理論の無理な解釈方法や、ディラック理論では説明できない現象が出ているために、ディラック理論は歴史的なものとして位置づけられているに過ぎず、電子の相互作用理論はファインマン流の「量子電磁力学」のアプローチが主流となっています。
このようなわけなので、エッセイの意図が「あるものを考えるとき、それ自体をかんがえるという通常の方法ではなく、それ自体以外を考える方法もある」というようなものである場合、空孔理論は適切なアナロジーとはいえません。それよりも、固体物理学において結晶中の電子の運動を「ホール」の運動として解釈する理論のほうがアナロジーとして適切です。
[飛行機の揚力]
飛行機の主翼に揚力が生じるのは、翼の上と下の流体の速度差によるものではありません。この誤解は、よく流体力学の入門本にもあるほど有名ですが、流体の速度差が生じないくらい薄い翼でも、十分な曲率を持って曲がっていればきちんと揚力が生じます(紙飛行機が飛ぶ理由を考えてください)。このことから、翼の上下にある流体の速度差による揚力の説明は破綻することがわかります。
翼に揚力が生じるのは、「流線曲率の定理」というもので説明できます。翼に沿って曲がっている流れを(流線)を円弧の一部だとすると、円弧の外側ほど遠心力に押されて圧力が高くなり、円弧の内側ほど圧力が低くなります。これを「流線曲率の定理」といいまして、この円弧の外側と内側の圧力差が揚力となります。
yutakashinoさん、ありがとうございます。
じつは、ディラックの海よりファインマン流に陽電子は時間を遡っていると考える方が物理学者にとっては受け入れやすいという解説を別のところで読み、おもしろいなあと思っていました。ファインマンについてはまたあらためてとりあげるつもりでいます。
揚力の話、なるほど遠心力という言葉を利用すればよかったんですね。翼の後ろで同着はしないという解説は読んでいましたが、それを一般向けにわかりやすく説明するにはどうすればいいか悩んだ結果、あのような表現をしたのでした。訂正いたします。
はじめまして。
揚力の話に関して、少々気になりましたので書き込ませていただきます。
翼上下面の速度差からベルヌーイの定理を利用して圧力差が存在することを示す論法が一般的ですが、実現象としては確かに揚力の発生している翼の上下面において流速に差があり、揚力の向いている側が速くなってます。これは膨らみの有る翼でも薄い翼でも同じです。
問題は、膨らみの有る翼を例に挙げ、上下面の経路差と後縁での同着を用いた説明です。この間違った論理から脱却しない限り、揚力が発生している薄い翼でも上下面で速度差がやはり生じている事実を説明できません。私のサイトでも再三主張しているように、翼上下面の流速差は揚力の原因ではなく結果なのです。
また、向心力(遠心力)や流線曲率を用いた説明については、拙サイト「飛行の理論 ??翼による揚力の発生について 第5章」を参照いただければ幸いです。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/a-cubed/lift/chapter5.html
A-Cubedさん、ありがとうございます。
はじめまして、というか、最初のコメントでご紹介させていただいていますが、コラムを書く際にA-Cubedさんのサイトもたいへん参考にさせていただきましたので、ぼくにとっては、お世話になりました、と申し上げたいところです。
それでも充分な表現になっていないのは、初めての方にごく短くかつわかりやすく伝えるには、どのように説明すればいいか、についてのぼく自身の力量不足ゆえ。お許しください。
結果的にコラムでは、「同着する」という表現は避けて、「流速差」という実現象のみをとりあげて説明したのですが、なるほど、因果関係が逆になっている問題は残ったままでした。遠心力という言葉を取り入れてもそこが解決されない限り、間違ったままですね。注意します。
小橋様
先日は、メールにて失礼しました。物理は圏外ですが、コミュニケーションツールとしての掲示板で、小橋様がレスを積極的に入れられることによって、これだけ盛り上がるという、ひとつの証明になりました。