大洪水が地球を襲う。主導者は予言し、それに先立つ午前零時、宇宙船がやってきて信じるものを救うと訴えていた。マスコミを避け、布教活動もしない。それでも、彼を信じる小さな集団ができた。やがて予言の日がやってくる。信者たちは固まって夜を過ごす。午前零時、しかし宇宙船はやってこず、数時間後、大洪水も起きない。
信者らは主導者を責めたか。信仰を失ったか。否。宇宙船も、大洪水もないとわかったとき、主導者の妻は天からの声を受信し、自分たちの必死の思いが天に伝わって、破滅を逃れることができたと宣告する。信者らは、その事実を今度は積極的に世間に伝えようとする。長い目で見るとこの集団は解散するのだが、予言がはずれた後しばらくは、信者らの活動はむしろ強固になった。
自分たちが信じていたことがむなしかったとすれば、あまりに自分が悲しい。予言の日までは自分の内面で信じていればよかったのが、予言がはずれた今、自分の信念を固めるには、外部に賛同者を増やし、社会的に認めてもらう必要がある。だから布教に励んだと社会心理学者は説明する。ぼくたちは自分を守りたいものだし、そのために、世界の見方を作りかえることもある。この集団ほどでなくても、多かれ少なかれ、ぼくたちは世界を、自分を守るために組みかえて今日を生きているのだろう。
昨日だって。「遊んで」子どもにせがまれて、「ちょっと待ってて」と答える。「ちょっとだけ?」「うん、もう少し」言いながら、ぼくは子どもの「ちょっと」という世界を、自分の都合に組みかえて返事している。だけど。だけどたぶん、世界を組みかえることそのものは否定できず、ぼくたちはそれから逃れられない。だからそれを自覚した上で、他人が組みかえた世界と接しなくてはいけない。「まだ?」子どもが聞くので「もうちょっと」と答える、今日はほんの少し、彼の世界の時間に近づけて。
今回紹介した話は、前に「権威への服従 [2003.04.10]」などで触れたことのある『影響力の武器』という書籍などで紹介されている、比較的有名な事例だったかも。ところで、「枡野浩一」氏の短歌集『ハッピーロンリーウォーリーソング』を読むと、世界の見方が変わって、なんだかすてきです。
あ、大学で習ったチアルディーニだ。ってピンときました。
認知心理学では「認知的不協和」と言っていました。理由のつかない感情って、心理的に不協和音になっちゃうんで、なんとか理由をつけたい。
好きだからドキドキするんじゃなくて、ドキドキすることに自分で理由をつけちゃうから「好き」だと思い込んじゃう。こんなにドキドキするなんて、私は彼を好きに違いない!みたいな。危なっかしい男がモテるのはこういう事なんですよねえ。
とりあえず ドキドキさせるw おし!
子どものころに「大人の”もうちょっと”ってなんて長いのだろう」って思って、
母親が”もうちょっと”って言った時にストップウォッチで計ったのを思い出した。。。。。2時間ちょっと。
ここで、ちょっとって使ってるあたり、まだ母親の”ちょっと”には到底及ばないみたいだ。