いろは歌のように、文字すべてを利用して意味のある文章を作る遊びをパングラムという。いろは歌の誕生は平安中期といわれるが、同じ平安期に五十音図も誕生している。もっとも庶民の手習いにはいろは歌が好まれ、五十音図が広まるのは明治になって教科書に登場してから。
教科書に五十音図が採用されたのは構成が論理的だったからだが、これは古代インドのサンスクリット由来だという説がある。梵語は紀元前三世紀までに音の並びを科学的に決めていたと言われ、この表を読もうとカナを振ったのが五十音図につながったというわけだ。梵語で二重母音とされるエとオがアイウの下にきている事実も、この説を裏付ける。
世界の言語の連鎖性を説く津田元一郎氏の著書に、各音の起源が説明されていて目をひいた。ア行は原霊性、ナ行は生産性、ラ行は輝光性を持つなどと定義した上で、各音のなりたちを見ている。たとえば日本語のソ音は祖先、基礎などのように「源」を示す性質を持つが、英語でもsource、soulなどs音に同様の傾向があるというわけだ。こうした性質が単語レベルにも現れて洞(ホラ)とhole、名前とnameなどのような共通性を生む。ただし、単なる偶然の一致と指摘する説もある。
心理学のラマチャンドラン博士らは、言葉の発生に共感覚的な感性が入りこんだ可能性を指摘する。星型のようなとんがった絵を言葉で表現するとき、多くの人が「ギザギザ」といった耳障りな音を混ぜる。「ちょっと」や英語で言うteeny-weenyなどの表現は口をすぼめる音が混ざるが、物の小ささをジェスチャーでも表現しているというわけだ。この見方をとれば、音や単語の類似性を、言語としての連鎖に求める必要はなくなる。
いずれにせよ、音はそれぞれ、祈りに似た思いから発せられた力強い何かであったのは事実だろう。ふだんそれらをまるで記号のように軽く口にしていないかと、振り返りもするのである。
パングラムについては、「パーフェクト・パングラム・デスク」をご参照ください。津田元一郎氏の著書は『日本語はどこから来たか』をどうぞ。並行して大野晋氏の『日本語の起源』なども読んでおくと異なる立場の説をバランスよく摂取できるでしょう。「ことばの散歩道」もご参考に。なお、ラマチャンドラン博士による著書は『脳のなかの幽霊』が有名ですが、言葉の起源との関連については「数字に色を見る人たち 共感覚から脳を探る」の論文にあたってみてください。共感覚については、かつて「さまざまな現実 [2002.04.01]」でコラムにとりあげていますし、そちらで紹介しているリンク先等を参照いただきたいのですが、そうか、主テーマとしてとりあげたことはなかったんですね。
言葉って面白いですよね。
うちも娘が生まれて4ヶ月、
あーとかうーとか、だんだん、言葉らしきものを発するにつれて、人類の進化に思いをはせたりしております。
ラマチャンドラン博士の『脳のなかの幽霊』、面白いですよね。絶版になっていたので図書館で借りて読んだのですが、上のリンクをたどっていったら復活しているようですね。養老孟司氏が解説を書いていて、実はこの本から結構ネタを仕入れたのではないかと思っているのですが。