日本における科学としての考古学は、1877年に行われたモースによる大森貝塚の発掘にはじまるとされる。茨城県立歴史館の特別展の案内に、徳川光圀、いわゆる水戸黄門さんが発掘をしていたとあって驚いた。1692年のことだから、モースに先立つこと200年。家臣に命じ古墳を発掘、近くにある石碑との関係を探った。出土品を絵図に記録したのち、埋め戻してもいる。日本人初の考古学者といえるかもしれない。
世界の考古学について調べてみると、本格的な考古学的方法をはじめてとったのは、ドイツ人のウィルケルマンによる「古代美術史」という。文献ではなく作品自体の観察にもとづいて、ギリシア・ローマ美術の様式的発展を説いた。これが1764年のことだから、光圀はそれに先立つ。もっとも何ごとにも例外はあるもので、小学館の百科事典には紀元前6世紀に新バビロニア帝国のナブナイド王が神殿を発掘した例も紹介されている。あとが続かなかったので、黄門さんともども、早すぎた先達といえようか。
モースのアメリカには、コロンブス以前のアメリカ大陸の住民を調べる考古学があって、アメリカニスト考古学と呼ばれ特殊な位置づけにある。旧大陸をフィールドとする考古学と違って、歴史学の一環ではなく、人類学の一分野という位置づけだ。現代と過去がどうつながっているかの違いが、こうした違いを生んでいるともいえようか。
広瀬正に、「もの」と題する作品がある。未来の考古学者が現代のあるものを掘り出し、それが何かを喧々諤々する。武器か、食器か、仮面か。何ということのない日用品なのだが、ある器官が退化した未来人には、想像もつかないのだ。考古学における解釈の重要性を感じさせるショートショート。
人類が存続していたとしてだが、おそらくは1000年後にもまた考古学者がいて、ぼくたちの生活を掘り起こしていることだろう。彼らにとってぼくらが見慣れている「もの」はどう見えることか。ときにそんな想像も楽しい。
水戸光圀の発掘調査については「水戸光圀と前方後方墳」をご参照ください。また開催中の茨城県立歴史館の展示会については「考古紀行いばらき」をどうぞ。広瀬正「もの」は『タイムマシンのつくり方』に収録されています。
前略
喧々諤々は侃侃諤々に修正した方がよいと思いますが。
早々
もともとは、けんけんごうごうか、かんかんがくがくか、ですね。その混合がけんけんがくがく。確かに、変に新しい表現を使うべきではなかったと思いました。
大西さん、ありがとうございます。該当箇所、いずれにせよ漢字が苦しいので、「それが何かを論じあう。」に訂正いたします。
大好きな広瀬正の名を久しぶりに目にしました。
若い頃遺跡の発掘に従事したことがあります。石鏃や
石槍は別として、礫を加工したものを、石冠だとか石
皿、敲石、擦石などと名前をつけて使い方も勝手に
(私にはそう思えました)解釈していましたが、タイ
ムマシンで縄文人を連れてきて目の前で使い方を披露
してもらいたいものです。
ところで「ことば」はいつ頃からあったのでしょう。
縄文人が雄弁だったら楽しい講義になりそうです。
広瀬正の「もの」って、懐かしいですね。
ちょっと前に、北米のペプシコーラの宣伝で
未来の考古学者がペプシのビンを発見して
これは何だろう?ずいぶんいっぱい出てくるぞ!
といったものがありましたね。
先日、会社で前職は学芸員で、遺跡発掘をしていた
と云う方を採用しました。
我が社(広告会社です)で何を発掘してくれるか
楽しみです。