残念、日本代表。それはともかく、スタジアムを埋め尽くした青のTシャツを見て、あの中に放り込まれたら、たとえ熱心なサッカーファンでなくても熱狂的なサポーターに変わったろうと想像した。それでふと、悪気はないのだけれど「監獄実験」のことを思い出したのだった。
社会心理学を学んだ方なら、ご存知だろう。実話をもとに『エス』というタイトルで映画化されて公開予定なので、これから耳にする機会が増えるかもしれない。「役割」が人格に与える影響を調べることを目的にした、1971年、スタンフォード大学のジンバルド教授による実験である。
実験に参加した被験者はボランティアに応募した24人。参加者は無作為に看守役と囚人役に分けられ、研究室を改造した監獄で、それぞれの役割を演じさせられた。実験期間は2週間。ところが、予想を超える規模で看守役の攻撃性がエスカレートし、囚人役は精神的な不安に襲われるようになった。実験は1週間で中止。
囚人役は番号で呼ばれ、裸の上に囚人服を着せられる。看守はカーキ色の制服に警棒。両者の役割はコイントスで決められたにすぎない。ごく普通の被験者が、制服を着て役割をこなす中で、人格を変えていく。
極限状態だったからというわけでもない。ぼくたちの日常でも警官の姿に権威を感じたりするが、一般には個人ではなく制服に権威を感じているだけだ。逆に、警官の服を着ただけで、中身と関係なく権威をかさにきる可能性もある。
もちろん制服には、業務上の動きやすさを保ったり、仲間意識を芽生えさせるなどの利点もある。青いTシャツが生んだ感動だってそうだ。ただ、制服に手を通す前に、裸の人間としての自分を振り返ってみることは有益だろう。議員バッジや流行のファッションのように、それと気づきにくい「制服」だってある。そんなもので自分を失ってたまるものか、だよね。
監獄実験については「The Stanford Prison Experiment」で詳細がレポートされています。映画『エス』サイトもどうぞ。
小橋さんのおっしゃる通りだと思います。
制服だけでなく、職業等の環境が人間に与える影響、
友人関係等のまわりの環境が与える影響が
いかに大きいものか、簡単に想像がつきます。
それでも、「独立自尊」の精神で、「自分らしさ」「日本人らしさ」を追求していく精神を忘れたくないものです。
今の日本人に欠けている精神ではないでしょうか。
細かいことなのですが、「警官」という言葉は新聞でも使われていますけど、警察官自身は嫌う言葉です。ちょっと見下されたような気がするので。普通に、警察官と言ってもらえればいいなあ、と思います。
外見が人を作る力には侮れないものがあります。
囚人実験ではヘアスタイル・衣裳・氏名といった
アイデンティティを示す大きな特徴を奪ったので
ますます外見の力が増大したのです。
反対に、
外見から始めてなりたい自分になることもできます。
心に傷を負った人が
シャンプーやマッサージ、口紅などで気持が落ち着いて
立ち直るきっかけを得る例がたくさんあります。
私自身にもそうした経験があります。
だから、よく「外側ばかり飾って中身を何とかしなければ意味がない」と言いますが、
外から入ることだってできるのです。
ワールドカップ日本代表チームのヘアスタイルも
彼らの気合を入れるのを助けていたと思うのです。
このご時世、自分の存在意義を感じることができずに
制服、または同じファッションに彩られることで、
自己発見をしているという人も多いのではないかと
思いましたね。
「制服」に彩られることで、明確な役割分担を割り
当てられ安心できる。その自分も造られた自分であり、
本当の自分がカラカラと変わっていく。
大義、大志(最早死語なのかな)がなければ、自分を
映すことができずに殊更だろうと思った次第です。
ワールドカップからいきなり『監獄』と来る落差がブラックですね(え、違いますか?)
確かに集団に合わせるのは楽ですし、そんな中マイペースを保つのにはエネルギーが必要かもしれません。しかし、自分は自分なのだという意地は常に持っていたいと思っています。
サポーターのみなさんには、ごめんなさい。どこから入ろうかと考えて、もっとも身近なところから、という意図だけなので、深い意味はないです。
こまさんのおっしゃるとおり、内面のよさを引き出すための制服っていうのもありますよね。
M.S.さん、警官という言葉に、警察官自身が見下されたような感触を覚えるという話、思いがけないことだったので、勉強になりました。グループを指す場合は警察官隊じゃなく警官隊なので、複数のなかの一員というニュアンスを感じちゃうのかな。あるいは、単に略されること自体が気になられるのでしょうか。外国人と外人の違いみたいなのかな。
楽しく読ませてもらいました。
ネームバリューのある会社の名刺と記事にあった制服
は同じ効果のあるような気がします。
また企業内における部長とか課長とかいう役職につく
ことが人格に影響を与えることもあるのではないで
しょうか。
立場変われば、その人も変わるっていう感じかな。
役職がその人を育て、成長させる。前向きな感じがし
てこっちのほうが良いですね。
日本には昔から「…らしく」という表現でその立場(たとえば部長)になったならそのように(部長らしく)振舞うことを社会が当然のことと思っているところがあります。「あなたお兄ちゃんなんだから、お兄ちゃんらしくしなさい」とか「あの人、部長なのに部下の面倒をぜんぜん見ないのよ」など、とかく「そうであるべき」という期待に反していることを表現することが多いように思います。のれんの価値がしっかりあった時代は役職、肩書きが個人のレベルでの成長を促していたのでしょう。そしてそれを促す社会の仕組みがあったのでしょう。これは日本の農耕民族文化に根ざした、大多数の国民に居心地の良い仕組みでした。
ここ10年、特にビジネスの世界でグローバル化という名のもとにアメリカ的ビジネススタイルを世界標準と思い導入しようとしてきて、たとえば年功序列をなくすとか、目標達成率による給与体系とか、狩猟民族文化に根ざした仕組みを一生懸命取り入れようとしてきたのです。それがうまくいかないのは、取り入れたい仕組みそのものが悪いのではなくそれを農耕民族文化の中に取り込むための咀嚼がなされていないからだと思います。
これらのことを考えながら制服のことを考えてみると面白いと思います。つまり、制服はその格好をしているときだけその役割を演じるためのもの、部長などの役職も、その肩書きの中で活動するときだけのもの(つまり、定年後はただの人)。私生活の中では企業生活の中での上下関係はなく、普通の(でも多少気を遣う)友人。年齢はその人の人生経験の厚みを表す尺度にはなるけれども上下の関係ではない。「あの人は社長をしているから偉い」のではなく「あの人は社長をするくらいだから立派な人なのだろう」と思い、でも実際ははずれであってもそこで「社長らしくない」と文句を言わない。
ここには基本的に二つの文化と二つの見方が2X2のマトリクスとしてあるのだと思います。ここに書いたことは、全く整理されておりませんが。
ふと「言葉」という名の制服も、着続けると人格が変
わってしまう大きな要因になるだろうなあと思いまし
た。この監獄実験で看守役になった方は、私生活では
特に何の権限も持たないような一般市民であるにもか
かわらず、実験中常に命令口調で話し続けることで自
分に暗示をかけていってしまい、無意識に自分の「役
割」にどんどんのめり込んでいってしまったんでしょ
うね。たぶん。(また言葉って、自分の口から出すと
いう動作と同時に、それをまた自分の耳でもしっかり
と聞いてしまう訳で、精神に与える影響はますます大
きいんだろうなと思います。)
私たちも、「学生」「教師」「恋人」「親」「男」な
どといったさまざまな肩書き(役割)の中で、どこま
で1人の人間として自然に生きていられているのか疑
問に思ってしまいます。人間っていう生き物は皆役者
なんですかね。
馬鹿なコメントでごめんなさい。若いので許して。