小橋 昭彦 2002年3月6日

 世間。もともと仏教用語で、命あるものが生きている世界を指すという。うつり変わりゆくことを意味する「世」と、空間を意味する「間」。万葉の時代からある言葉で、客観的な対象を示すというより、自らと世の中の関係性を含んだ言葉だ。
 政治家が辞職するときの理由はたいてい「世間にご迷惑」をかけたからだし、親が子をしかるときには「世間体が悪い」からということが多い。もっとも、近年では世間の役割が薄れてきて、変わって強調されるようになったのが「個人」の責任と「社会」的な判断基準だ。
 世間についての研究を進めている共立女子大学の阿部謹也大学長によると、個人という言葉が日本で生まれたのは1884(明治17)年のことだという。それ以前に個人はなく、人は世間の中で生きる存在ととらえられ、独立した個としては意識されていなかった。米国に比べて日本で個人による訴訟が少ないのは、紛争解決の手段として、社会的な判断基準より、世間が機能してきたことと無関係ではないだろう。
 出世という言葉も、もとは「出世間」の略。俗世間の煩悩を解脱し、悟りをひらくことだ。現代の経済的社会においては、人は出世すると責任が重くなり、それにつぶされたり、ときに権威をふりかざし煩悩の権化と化すこともある。本来の出世のココロを忘れないでいられればいいのだけれど。
 田舎に暮らすようになって思うのは、ここでは今も世間が機能しているということ。自分たちの集落は自分たちで守るという意識も色濃い。いや、意識というより伝統といったほうがいいか、ときにわずらわしいこともあるにせよ、世間に身を任せられる安心感は格別。子どもだって世間に守られて育つ。個人とその自由に立脚する社会もいいけれど、合理性を理由に薄れつつある世間を惜しみもしている。

6 thoughts on “世間というもの

  1. 没ネタです。コンビニの1店舗あたりのCO2排出量は平均160万トン(朝日1月21日)。熱帯地域の雲が地球を冷やしている(朝日1月28日)。温暖化で赤ワインの色が薄くなる(朝日1月9日)?

  2. ●親が子をしかるときには「世間体が悪い」からということが多い。

    驚きました。親にそういうふうに言われるのは普通なんですか?
    私は親の口から「世間」という単語を聞いたことがありませんでした。叱られる時は「これこれこうだから、お前が悪い」と言われました。ですから、自分にも事情がある場合は、釈明も許されていました。「世間」という具体的でないものを持ち出されても、たぶん私は納得しなかっただろうと思うのですが。

  3. 最近読んだ本でとてもおもしろかったのが
    佐藤直樹著『「世間」の現象学』(青弓社)です。
    いま”世間”を賑わしている政治家問題や、
    日本の社会がなぜ変わりにくく
    「出る杭」を嫌い
    こんなに閉塞感があるのかなど、
    日ごろ感じている構造的疑問に対して
    とても納得の行く説明でした。
    その本にも、阿部勤也氏と同様、
    「日本にあるのは〈社会〉ではなく〈世間〉」とありました。
    「世間」はこれからもしっかりと生き延びることでしょう。

  4. ぽぽろんさん、ありがとうございます。そうですね、具体的に「世間体」という言葉が使われることは少なくなっていると思います。

    コラムを書いているときは、たとえば電車の中で子どもが騒いでいるとき、「おじさんに怒られるからやめなさい」という親がよく話題になることを思い出していました。「静かな環境を求めている人に迷惑がかかるからやめなさい」という基準じゃなく、「おじさんが怒るから」というのは、別におじさんじゃなくてもいいわけで、「世間体が悪い」の言いかえじゃないかな、と思ったわけです。

    「かっこ悪いから」「みっともないから」「はずかしいから」といった言い方は、「世間体が悪い」とほぼ同義かなと思います。そういう意味を含めての表記とお考えください。

    実を言うと、最近の親は「世間体」だけじゃなく、「自分にとっての都合」でも怒っているような気がしないでもないですが、いずれにせよ、「社会にとってフェアかどうか」という基準で子どもに叱ることは少ないのじゃないかと考えています。

  5. 小橋さん、“「社会にとってフェアかどうか」という基準で子どもに叱る”には、親は「自分の存在を賭けて、子供の前に立ちはだかる」だけの覚悟がないと難しいですよね。

    先日銀行で見たある母親のことですが、子供が列から外れて走って行った時には追わないのに、自分の用事が終わってからやって来て、怒鳴って引っぱたいていました。
    ポーズとして「自分は躾に厳しいのだ」と他人に見せている感じでした。でも、そういうエゴは子供にも分かります。

    人間は他人の中でしか生きられないのですから、小橋さんのおっしゃる通り、いい意味での「他人の目」は必要だと思います。「かっこ悪い」「みっともない」「はずかしい」のは本人であって、親ではないのだと、子供に教えるのが本筋ですよね。

    *****
    ところで明治生まれの祖母はよく「お天道様がいつも見ている」と言ってました。私はそれを監視ではなく、「自分を見守ってくれているもの」と思っていました。
    子供の心が荒れるのは、一つには「味方になってくれる」「信じてくれる」「見守ってくれる」存在が希薄だからではないかなとよく考えます。

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