昨日、公衆電話から携帯電話への流れをコラムにしつつ、携帯電話は日本人の時間感覚をすこし変えただろうか、と考えていた。以前なら何時何分にどこって厳密に決めていた待ち合わせが、最近は何時ごろにどこそこのあたりでと、おおまかに決めてあとは携帯で連絡をとりあっている。
今でこそ時間厳守の日本人だけれど、江戸時代まではそうでもなかった。そもそも時間のはかりかたが不定時法だ。日の出日の入りを基準に昼間と夜間を六等分する。当然、季節によって時間の長さが変わる。その時間を、寺の鐘などが知らせてくれる。庶民は時計なんて持っていないから、待ち合わせをしようにも、鐘と鐘の間がいまでいう約2時間だから、せいぜい30分ばかりの幅をもった見当でしかつけられなかっただろう。
そんな時間感覚を厳密なものにしていくにあたって、これは欧米でもそうだけれど、もっとも影響を与えたのが鉄道だ。鉄道を滞りなく運行するには、ダイヤに添った定時運行が求められる。また、鉄道が続くところは、各地の時刻を合わせておく必要もある。こうして、鉄道が時間革命をもたらす。日本に定時法が導入されたのは1873(明治6)年のことだが、その前年に初の鉄道が開通していたのは象徴的だ。
幕末から明治維新期にかけて日本の近代化のためにやってきたお雇い外国人は、みな日本人の時間のルーズさに嘆いたという。それもこうした背景を考えれば仕方のないことで、その後の日本人を見てもわかるように、決して人間が怠惰だったわけじゃないだろう。
いま、アフリカや南米に旅した知人らが、現地の時間感覚の悠長さを嘆くのを聞くたび、かつてのお雇い外国人の苦労をしのび、なんだか微笑をおさえられない。
ふるさとではいまもお寺で五時の鐘が鳴る。原子時計の精確さと、里に響く鐘の音と。どっちがいいっていう問題じゃないよね。
『遅刻の誕生』この本はおもしろいです。日本人の時間意識形成について、より詳しく知りたい方はぜひどうぞ。なお、職場での就業時間意識という意味では、テイラーの「科学的管理法」の導入が大きいです。
没ネタ。聞き取る能力判断に「アサメシ」「アミハン」などの言葉を使った方法開発(朝日9月19日)。アートセラピー、1960年代米国で確立(日経8月11日)。
こんにちは、いつも小橋様の素敵な、言い回しに感動しています。そもそも日本人は、郷にいれば郷に従う、というか、環境によって、自分をカメレオンのようにかえられる、民族かな、と思います。よって、時間感覚等、西洋から入ってきた、慣習にすぐ慣れ、いまでは、悠長な時間感覚を持った人々にいらいらしたり、羨望の眼差しを注ぐのでしょう。でも、結局、100年前の自分達なのにね・・
まだ小学3年生だった頃、門限は5時だった。5時には農協のサイレンが大きな音で近隣に鳴り響く・・・農家の人たちがサイレンで家路に着くのが普通だった。
ある秋の日、隣村の友達と遊び、農協の大時計を見ると5時まで後2分!さよならの挨拶もせずに家まで駆け出した!
村と村の間は田んぼの中の未舗装のバス道が一番近い。
時々、車が通るから本当は通ってはいけないクルマ道をゴロゴロ転がっている石に足をとられて、転びそうになりながら走り続けた。村が遠くに見えたとき無常にも農協のサイレンは鳴り始めた。
鳴り止まないことを祈りながら走るが、村までの一本道はまだ遠い・・・西の山に日が沈み真っ赤な夕焼けの中、なにか悔しくて泣きながら走り続け、家に帰り着いた。
おかあちゃんは門限に遅れたことを咎めず、
「手ぇあろといで。おなかすいたやろ。イモ食べるか」
と、五右衛門風呂のかまどから出した焼いもをくれた。
私の人生であのときほど必死で時間と競争したことは無い。
今でも約束の時刻に遅れそうになると、30年前の土ぼこりの一本道を思い出し、無性にあせる自分がいる。少しくらい遅刻しても相手は許してくれるのだろうけど、何か息苦しい気持ちになる。
近代以降時間感覚がいかに変わり
いかに人間から時間の自由とゆとりがなくなったか
という話を聞くと、いつも
ミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出します。
何度読んでもいい本ですね。
私は、1に健康と体力、2に時間、3にお金、
これらが一定レベルで揃えば
人間、好きなことができて楽しく暮らせると思っています。
でも、どれかがあってどれかがない。
学生のときは1と2があっても3がなくて、
最近は1と2がなくなったと思っています。
3拍子揃った年寄りになりたいな・・・。
時間(時計)を気にしない暮らしを一度してみたいですね。
以下、ちょっとした実験です。