携帯電話の普及で、公衆電話の台数はピークだった1984年の約94万台から急減、現在は全国で約71万台という。
公衆電話が日本に初めて登場したのが1900年のこと。今は別の意味あいで重い日となった、9月11日だ。場所は新橋駅と上野駅。それまでは電話所に行って頼まなくてはいけなかったのが、人手を介さずにかけられることとなった。同じ年、現在の銀座1丁目交番付近に、最初の公衆電話ボックスが登場している。扉には「自働電話」。
自分で働くといっても、実際には受話器をとって交換手と話すことになる。交換手の指示で、お金を入れる。10銭か5銭。投入口が違っていて、入れると10銭は「ボーン」、5銭はゴングのような「チン」という音がした。その音を聞いて交換手が投入額を判断、通話先につなぐ。
最初の電話ボックス、形は六角柱、屋根の下がくびれた灯台のような姿をしている。港から港へのみちしるべとなる灯台、人から人へのコミュニケーションをつなぐ電話ボックス。確かにどこか共通性があるような気がしないでもない。
公衆電話時代の青春像っていうのもある気がする。六畳ひと間の共同アパート、アパートのピンク電話はたいてい誰かが長電話で使っているから、寒い冬の夜、しっかり着こんで、小銭をポケットに街角の電話ボックスまで小走りにかけていく。午後11時、自宅に住む彼女には時間を合わせて電話の前で待ってもらっている。硬貨をいれて、番号をまわす。すぐに出てくれるだろうか、呼び出し音が鼓膜に響く。1回、2回。葉の散った街路樹を見ている。カチャ、硬貨が吸い込まれる音がする。
「公衆電話博物館」「公衆電話インフォメーション」「公衆電話ボックスの歩み」「公衆電話機のうつりかわり」「テレコミュニケーションの歴史」などが参考になります。自働電話の外観については「江戸東京博物館」「東京初めて物語」などをご参考に。
今、引出しの奥の方で「テレフォンカード」が熟睡しています。
携帯電話が普及していないころは、必需品だった公衆電話ですが、今では見向きもしなくなりました。
総ガラス張りの電話ボックスではなく、昭和40年代前半まであった窓付きの電話ボックスには、数々の青春の思い出がありますね。
コミュニケーションとしての機能だけではなく、電話をする劇場空間・・・・。いろいろ、ありました。
今となっては、なつかし0な。 ハハッ。
数ヶ月前から携帯電話を持っていないので、
公衆電話の少なさを肌で感じます。
テレホンカードも売ってませんし。
よく「ケータイ無くて、不便じゃない?」
なんて聞かれますが、持っていない本人より
周りの人たちの方が不便を感じるようです。
小橋さんて俺より若いのにそんな思い出もあるんですか?
最後の数行を読んで、思わず「綿入のはんてん」を脈略もなく想い出してしまいました。
できればこの「綿入の半纏」もいつか話題にして下さい。
じつは「ちゃんちゃんこを羽織って」と書こうとして、さすがにこれは通じないかとあきらめました。でも、浮かんだイメージは、確実に「綿入のはんてん」です。
コラムに書いたのは、そのまんまぼくの経験というわけじゃないのですが、ほんの少しの間、寮に暮らしていた頃の思い出と、同世代のともだちの経験談を交えて創作しました。
ちなみに、今では携帯を持っていますが、「外に出かける固定電話」的な扱いです。つまり家族で共有しています。ぼくとハンリョ、そのとき外に出る方が持って出るという。だからぼくとハンリョ、どちらが出ても驚かない人にしか、携帯番号は知らせていません。在宅で働く人間にとっては、携帯って、そのくらいでいいんですよね。
昔、大阪池田に住んでた彼女と彼女の下宿の近所にある公民館の公衆電話横で待ち合わせをした。
金曜日の夜遅くに車で走っていき、電話ボックスの横に止めて、そのまま夜を過ごし、朝、彼女が起こしに来てくれるのを待つ。冬になれば温かいコーヒーと共にやってくる彼女を寝ぼけ眼で向かえたっけ。
ちょっと薄暗い感じのする場所にある黄色の公衆電話。夜、彼女は200km離れて住んでる俺にここから電話をかける時、怖くなかったのかな?きっと駆け足でやってきて、帰るときも駆け足で帰っていったのかな?
携帯電話は持ちたくない、と言ってきかなかった彼女は便利さから、つい忘れがちになってしまう「物事の順序」を大事にしていたのかもしれない。
結局彼女は15年経った今でも、離れてる俺に連絡をするときは公衆電話からだ。家の内線電話でご飯の支度を知らせる時は別だけど。
9月11日と言う日は何の日?と瞬間思ってしまった。
本当に公衆電話は、冬の思い出が強い(?)
切実さが伝わった気がします。