ありもしないことを見たと主張する人。ウソをついているつもりじゃなく、真実そうだと信じているらしい。めったにない誤解だろうか。
たとえばディズニーランドに遊びに行った100人のうち30人から40人が「バッグス・バニーに会った」なんて言ったら、あなたはそれを信じるだろうか。バッグスはワーナー・ブラザーズのキャラクターで、ディズニーランドにいるはずがないのに。30人に見たと断言されては、友情出演でもしたかと思わざるを得ないかもしれない。
ところが、そんな記憶さえ、かんたんに作り出せる。実験を行ったのはワシントン大学のピックレルとロフタス。120人の被験者を4つのグループに分け、うち1つのグループにはバッグス・バニーが載った偽のディズニーランドのパンフレットを読ませる。もう1つのグループには切り抜き人形まで見せる。すると、偽のパンフレットを読んだグループでは3割、人形まで見たグループでは4割もの人が、ディズニーランドでバッグスにあったと後に答えたのだ。なかには握手をしたとまで言う人も。
ネッシーが話題になるとネッシーを見たという人が増え、円盤が話題になると発見報告が相次ぐ。それらも、もしかすると同じような背景で記憶が作られたのかもしれない。過去は変えられないというけれど、実際にはこうして、記憶の中でぼくたちは過去を改変してしまう。
そして、考えてみれば、過ぎ去ってしまった以上、ぼくたちの手もとに残るのは記憶しかないわけで、たとえばバッグスにあったと信じている30人が集まって、「かわいかったね、いたずらウサギ」なんて思い出話をはじめたりする、とそこにもうひとつの過去が立ち現れ、それは多くの人に確認された事実として記憶される。こうしてぼくたちは歴史を歩んできたのかもしれないと、なんだかちょっと怖くなったりもしたのでした。
ディズニーランドでの研究については、「Bugs at Disney? Not on your life doc」にレポートされています。また「A Demonstration and Comparison of Two Types of Inference-Based Memory Errors」も同様のにせの記憶にかんする研究です。
記憶は一人だけのものです。怖れも一人だけのものです。喜びも一人だけのものです。
うむ。それは確かにそのとおりですね。だけどそれを共有できるのも人間かなって思ったりします。ちょっと形而上的なやりとりになっちゃってるかもですが。
電車のなかで痴漢を捕まえたと思っている女の子は、人違いかも知れないなどとは考え及ばないのでしょうね。
冤罪を晴らすのに2年かかり一流企業の職も失ったというサラリーマンの書いた本には、やましいことはやっていないのだからと「堂々と」駅長室に行くべきではないと書いてあるそうです。
裁判の結果、背丈の違いでかがめない場所では手が届かないという決定的証明で冤罪が晴らされていますが、それ以外の冤罪はどれほどあることか。
裁判で無罪となった場合、「加害者」となった女の子は「被害者」に償っているのでしょうか。
多分、彼女らはまだ裁判の結果に納得がいかないと思っているのでしょうね。