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ちょっと知的な雑学&トリビア

キノコ喰いロボット

2005年4月28日 【コラム
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 心理学に「パンダ、サル、バナナ」から仲間二つを選ぶ実験がある。日本人ならサルとバナナを選ぶ人が多いのではないだろうか。中国人もそうだ。これがアメリカ人だと、パンダとサルが多くなる。欧米人はものごとをカテゴリー化してとらえるのに対して、東洋人は関係性や文脈に注目するという。
 これをもってあなたは西洋タイプ、東洋タイプと遊んでもいいけれど、むしろ重要なのは、両者が違う世界の見方をしていると気づくことだ。同じ桜を見て「きれいだね」とうなづきあったとしても、一方は古寺を背景とする色合いを誉め、一方はやがて散るはかなさゆえの輝きを愛でているかもしれない。
 心理学の戸田正直氏が提唱し、人工知能分野でも知られている思考実験に、キノコ喰いロボットというのがある。キノコを食べて自活するロボットをある惑星に送ったとき、どのような要素が必要になるか、という問いだ。キノコを見分ける能力、キノコのある場所を推測する能力などはもちろんだけれど、より難しいのは、自分がどれだけのキノコを食べていいかというルールだろう。
 キノコは有限だ。一体のロボットからすれば食べたいだけ食べる方が有利だけれど、みんながそれをするとキノコが無くなり滅亡する。それに近い経験を経て、やがてロボット社会にはキノコを食べ過ぎると森の神が怒るといった神話が生まれたり、遠慮につながる感情が生じるかもしれない。こうして惑星に適応していくために、社会制度や個人の心理が築かれていく。
 東洋と西洋の違いを生んだのはどんな自然環境、社会環境だったか。何千、何万年の過去に思いをはせるとき、ぼくたちは少し、相手に対して優しくなれる。この瞬間の違いを取り立てるより、互いが違う世界を見ていると知った上で、ともに生きていく。同じ桜を前に違う意味で「きれいだね」と言ったとしても、互いを受け容れていれば、肩寄せ合うひとときはあたたかい。

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4 comments to...
“キノコ喰いロボット”
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小橋昭彦

文化心理学という分野があるのですが、これは以前「自分って何 [2003.08.21]」でも取り上げました。

パンダ、サル、バナナの実験は、「Richard Nisbett」博士らによるもので、氏の著書『木を見る西洋人 森を見る東洋人』で取り上げられています。この書籍、文化心理学の楽しい入門書となっています。日本では「北山忍」博士が著名で、『自己と感情』がおすすめ。

それから、社会環境というマクロと個人心理というマイクロな関係を適応という視点でとらえた書に『複雑さに挑む社会心理学』があります。これも面白いです。


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しゃあ

昨日 朝のミーティングでこの件を聞いてみました。11人中9人が バナナ、サルでした。残りの2人がパンダ、サルでしたが どうも この2人 自己中心とは言わずとも 少し協調性に難がある。仕事は出来るのだが チームの他のメンバーに対して「フォローしてやろう」と言う気持ちは ないようです。その事も含めて「仕事」なので リーダーには なれないでしょう。本人達は 気付いていないようで 「ウチの社長 分かってないナ」と 思っているでしょう。
欧米では ココの所は どうなんでしょう?


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小橋昭彦

しゃあさん、ありがとうございます。

ここまでみごとに結果にあらわれ、かつリーダーシップとの関係を見抜かれたことに脱帽です。これはとてもおもしろい視点ですね。欧米ではどういうリーダーが求められるのか。日米比較をすぐに思い出せませんが、ちょっと気にとめておきます。


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tom

『食べたいだけ食べる方が有利』というのは『子孫繁栄』を前提とした考え方だと思います。子孫繁栄という目的が無ければ有利不利という概念自体不必要ではないでしょうか?
シュミレーションとしての仮想実験なら、ロボットの自己複製機能や『死』、それから実際の生物では有ったであろう、繁殖力の差による『淘汰』などの条件を考える必要があるのではないかと思います。
そういうことを想像するのは楽しい事ですが・・。




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 幼い子を叱るのは難しい。ダメと言うだけでは怒っているにすぎないと「そんなことをしたらお母さんが悲しむよ」と言ってみる。一方で、他人の気持ちを察するのは3歳の子には難しいとも思う。上の子が4歳のときだったか、「他の人の気持ちを考えなきゃ」と叱ったら「大人の言うことは難しい」と返されたことを思い出す。ちょうど心の理論を身につけ始める頃で、それゆえに難しさを実感したのだったかもしれない。 他者が自分と違う意識を持つと自覚し、それを察しようとすることを「心の理論」という。心は、直接知ることはできない。他者の言葉や仕草から仮説を組み立て、だからこうだろうと予測するほかない。この流れが科学理論に似ているところから、心の理論と名づけられている。 誤った信念課題と呼ばれる実験がある。子どもの前に赤い箱と白い箱を置く。先生が赤い箱におもちゃを隠して教室を離れる。その間に、別の誰かがおもちゃを赤い箱から白い箱に移す。帰ってきた先生は、おもちゃを取り出すためにどちらの箱を開けるだろう。幼い子は、先生と自分を分けず、白い箱と考えてしまう。大人のように赤い箱と答えるのがだいたい4歳くらいなので、そのくらいが心の理論を身につける年齢とされている。 もっとも、つい最近の実験では、15ヶ月の幼児でも誤った信念課題に正しく答えたという結果も報告されている。また、動物が心の理論を持っているかも研究課題だ。端的な実験としては、相手が指差した方向を見るか、などがある。チンパンジーは持っていそうだがサルについてはあやしいと言われるけれど、議論が続いているようだ。 あらためて振り返ると、ぼくたちは心の理論を持つからこそ、あの人は自分をどう思っているだろうと恋に悩むこともできるし、相手を傷つけないようにと自分を抑えもするのだ。それは、なんて特別なことなのだろう。

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 パンダ、サル、バナナから仲間二つを選ぶとき、東洋人はサルとバナナを仲間と答える傾向があることを前回紹介した。同じ実験をpanda,monkey,bananaと英語でやるとどうか。いったん母国語に置き換えない程度のバイリンガルな中国人の場合、pandaとmonokeyを選ぶ比率が高くなる。 ぼくたちの思考様式や行動は、このように言語の影響下にあるのかもしれない。サピア=ウォーフの仮説として知られている考え方だ。ウォーフはその論文で、「現実の世界」は言語習慣の上に形作られるという師エドワード・サピアの言葉を引用している。提唱されて半世紀、支持と反論が続いており、前述の実験をしたリチャード・ニスベットも、言語より育ってきた文化の影響の方が大きい事例もあると報告している。 カンガルーの語源となる単語を持つというオーストラリアのグーグ・イミディル語を話す人に、左向きの矢印を見せて同じ絵を描いてほしいと頼むと、人によって違う方向の矢印を描くという。右、左という言葉を持たなければ、見せられた絵をたとえば北向きの矢印と理解するわけで、その人が座る向きによって違う方向の矢印を描くことになる。 一方で、色彩語の研究で有名な米国のポール・ケイは、同じカラーチップを見せたときに、それを2色に分ける言語も12色に分ける言語もあるが、分節の仕方にはある程度のパターンがあることを見出している。たとえ言語が違っても、自然界の色彩の波長配分まで組み変わるわけではない。 言語は確かに、世界の認知に深く関わっている。言語が違えば考え方が変わるのは事実だろう。しかし、同じヒトとしてこの世界で生きている以上、世界との関わり方にはある種の制約があり、互いにコミュニケーションできないほどに異なることは無い。その、違うけどわかるよね、とでもいった気持ちよさを感じるとき、言語を単に道具としてみることを超えたところにある、サピア=ウォーフ仮説の魅力に気づく。

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