パンダ、サル、バナナから仲間二つを選ぶとき、東洋人はサルとバナナを仲間と答える傾向があることを前回紹介した。同じ実験をpanda,monkey,bananaと英語でやるとどうか。いったん母国語に置き換えない程度のバイリンガルな中国人の場合、pandaとmonokeyを選ぶ比率が高くなる。
ぼくたちの思考様式や行動は、このように言語の影響下にあるのかもしれない。サピア=ウォーフの仮説として知られている考え方だ。ウォーフはその論文で、「現実の世界」は言語習慣の上に形作られるという師エドワード・サピアの言葉を引用している。提唱されて半世紀、支持と反論が続いており、前述の実験をしたリチャード・ニスベットも、言語より育ってきた文化の影響の方が大きい事例もあると報告している。
カンガルーの語源となる単語を持つというオーストラリアのグーグ・イミディル語を話す人に、左向きの矢印を見せて同じ絵を描いてほしいと頼むと、人によって違う方向の矢印を描くという。右、左という言葉を持たなければ、見せられた絵をたとえば北向きの矢印と理解するわけで、その人が座る向きによって違う方向の矢印を描くことになる。
一方で、色彩語の研究で有名な米国のポール・ケイは、同じカラーチップを見せたときに、それを2色に分ける言語も12色に分ける言語もあるが、分節の仕方にはある程度のパターンがあることを見出している。たとえ言語が違っても、自然界の色彩の波長配分まで組み変わるわけではない。
言語は確かに、世界の認知に深く関わっている。言語が違えば考え方が変わるのは事実だろう。しかし、同じヒトとしてこの世界で生きている以上、世界との関わり方にはある種の制約があり、互いにコミュニケーションできないほどに異なることは無い。その、違うけどわかるよね、とでもいった気持ちよさを感じるとき、言語を単に道具としてみることを超えたところにある、サピア=ウォーフ仮説の魅力に気づく。
冒頭、パンダ、サル、バナナの事例は前回コラム「キノコ喰いロボット [2005.04.28]」及びそのときの関連情報をご参照ください。
ウォーフの著書に『言語・思考・現実』があります。ただ、ちょっと難しい。この仮説については最近も「Peter Gordon」が「Study of obscure Amazon tribe sheds new light on how language affects perception」と発表するなど、検証が続いています。グーグ・イミディル語については、「オーストラリア原住民語の世界」からどうぞ。
ポール・ケイについては「Paul Kay” s Home Page」をどうぞ。「Construction Grammar」からの情報も気になるところ。
あと、「サピア=ウォーフ仮説再考」がお薦め。
「言葉が違えば考え方も違う」
そう思ったのは、子供の勉強を見た時の事(非読書家) ^^;
国語の問題文の中で、表・裏や奥に当たる表現が無いと言っていた。
物の名前以外でも日本語から英語に取り込まれていってもいい言葉が色々あるのではないかと思った。
自分は『「現実の世界」は言語習慣の上に形作られる』に、潔さを感じます。
英国人と日本人は100%は解かり合えない。
でも70%までは行けるかも知れない。それで良いじゃないかと。0か1ではなくて。
相互理解の前提には「違い」と「諦め」が無いと、宗教戦争が起こるのだと思います。
もしかしたら、当たり前すぎる考え方なのかもしれませんが、私は、思考が言語を制約するのだと思います。
(思考の必要性が言語化される動機になる)
アラビア語では『座っているラクダ』、『眠っているラクダ』などがそれぞれ違う単語としてあるそうですが、彼らの生活にラクダが深く関係しているからこそ、それぞれの状態を表す単語が発明されたのでしょう。
日本では、『ハマチ』、『ブリ』などの出世魚などが典型例だと思いますし、英語では『ロース』『ヒレ』など区別があるのに対し日本語では『牛肉』だけなのも、言葉が思考を支配するというより、思考(関心)が言葉を規定しているという方が素直な考え方なのだと思います。
言語が思考に影響を与える事が無いとは言えないと思いますが、思考にそぐわない言葉というのは根付かないでしょうし、状況変化などによって生活に合わなくなった言葉は廃れていくのだと思います。