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ちょっと知的な雑学&トリビア

群れの行動

2004年8月19日 【コラム
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 1989年10月9日、ベルリン。誰が主導したわけでもないのに、東独では七万もの人が東西を隔てる壁に集まり、民主化を叫んだ。この群集の行動を、ノースウェスタン大学の研究者らが複雑系の理論を用いて説明している。それによると、このときの人々の行動は、多くの人を真似るという単純な原理で説明でき、しかも秘密警察というノイズの存在が行動を促進したという。
 複雑系では、外部の要因に頼らずに群れの行動を説明できる。有名なのがレイノルズ博士によって見出された「ボイド」だ。鳥の群れは、目指すべき巣とか太陽の位置など外部要因からシミュレートしようとしてもうまくいかない。ボイドでは、たった3つのルールを持たせるだけで、群れの動きが再現できる。
 まずは、仲間が多くいる方向に向かって飛ぶこと。次に、近くの鳥たちと飛ぶスピードや方向を合わせること。そして、近づきすぎたら離れること。この3つだけ。もう少し複雑にするなら、個々の鳥に視野の広い狭いといった個性をもたせたり、しばらく飛んだら気まぐれで離れようとしたりというルールを加えてもいい。魚の群れもこれでそれっぽく再現できる。
 人間の消費行動もボイド的とする調査がある。みんなが買うベストセラーを買い、友人が薦めるものを手に入れ、だけど一方で個性やこだわりを追及する。なるほど、こうしてみれば、ぼくたちは消費に限らず、ふだんからボイド的に生きているかなあなんて思えてくる。視野が狭いとか、距離感が近すぎるとか、個性を持たせるといっそう似そうだ。
 そんなことを考えていると、なんだ、自分もまたそうしたいろんな方向性の心を持っていて、それらが総合的にまとまって今日を生きているに過ぎないと、そんなことに気づく。そして自分を構成する要素のひとつひとつを引っぱりだして、ゆったり組み立てなおしてみる。たまには自分を一個ではなくシステムとしてみるのも悪くない。

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9 comments to...
“群れの行動”
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小橋昭彦

まずは冒頭に述べた研究ですが、「Study Shows How Consensus is Attained in a Noisy World」という大学からのリリースがわかりやすいです。論文本体は、「Efficient system-wide coordination in noisy environments」という抜刷が、著者らのサイト「Amaral Group” s Website」からダウンロードできます。さて、ボイドについては、なによりクレイグ・レイノルズ自身による「Boids」をごらんください。デモもありますが、いやほんと、鳥っぽいですよね。人工生命方面の話でもあり「人工生命の宝庫」のリンク集内にも関連サイト紹介があります。たとえば「Floys: The Basic Version」とかね。ボイドは魚にも適用できるわけで、「Steve” s aquarium」でデモが見れますが、日本語論文では「メダカの群れの動きのシミュレーションとメダカの群れの生成と分裂のリズム」も参考になります。日本語の解説では「群れの知能」がいいですね。最後に、消費者の価値観をボイドに見立てた論文は、野村総研の「知的資産創造2001.1」内に「21世紀の生活者と新たな消費スタイル」というのがあるので参考にしてください。講義資料「企業と市場のシミュレーション」にあるように、社会システムにあてはめてみるのもおもしろそうです。


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松本禎之

群れといえば、会社組織はまさに群れの集まりで、事
業部単位、部署単位で日々群れの中で情報を交換し、
仕事をしています。ふと思うのは、学校時代(幼稚園
も)から群れが組織されガキ大将がいて、集団のなか
で力を誇示している形と会社組織も何ら変わらないよ
うな気がします。今でも学校時代はもっと目立ってい
たとか、もっとモテたとか考えていますが、よく考え
ると、群れの中のポジションは無意識の内に形成して
いてあまり過去と変わらないような気もしてきます。
自分らしさを群れの中で発揮できるようにしたいと30
半ばにして考えています。


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keiji"西山

小橋先生本当に毎回頭が洗われる思いで拝見したいます。私は家の都合もあり小さいときから学問には縁遠い人生でした。もっと勉強をしていたらと思う事しきりな先生のコラムです。毎度毎度感心しては意見しています。頭のいい人はいいなアーと関心しながら、次の配信を待っています。益々の御研鑽を。坊ちゃん大きくなられた事でしょう。ご家族のご健康をお祈りします。 keiji”西山


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ヴェスパ

んー、でもここ最近はつまらないなぁ。
妙に最後に自分の置き換えてまとめる文章が入るけど、強引さが目立つ気がする。
それは扱う内容の合う合わないだけではない気がします。
「バスを待つ」等は良かったのですが、、、


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平野

んー、確かに説明はできる。ただ説明というのはどこまでいっても事後の話でしかない。日常的ではない一回だけの群れの、まだ真似る多数が形成される情報のないときの、先頭の個々の数人それぞれの行動がスタートしたわずかな時間のあいだ、あるいはまだ誰も動き出していない前の一日前、二日前、半年前、つまりは事前を、誰か事前に説明してくれないかなぁ、とおもったりする今。


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小橋昭彦

平野さん、ありがとうございます。そういう、行動にとっての夜明けの時間って、わくわくしますよね。どっちかというと小説の分野かな。しかしそういう小説をさいきん、あまり知らないなあ。思い出して系ばかりのような。

ヴェスパさん、確かに、特に今日は強引だったかもしれません。方法論として、社会批評的視点を避けているので、ともするとプライベートばかりに落ちかねません。心します。

ええとそんなわけだから、どうぞ「先生」はご勘弁を、keiji-西山さん(笑)。


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松本秀人

群れが単に群れであるというだけなら、「仲間が多くいる方向に向かって飛ぶこと」など3法則だけでいいのでしょうが、実際には、エサを見つける、より快適な場所に移動する、周囲の敵に気を配る、などなど様々な要素がからんでくるので、明示的にせよ暗黙の了解にせよ、ある種の役割分担が群れ内にあるのではと思っています。
ちょうど人間の消費者行動も、すべて同質な個体の集まりではなく、「なんでも新製品にすぐ飛びつく」「普及しだした製品に興味をもつ」「十分広く普及してから使う」などにわけられるようなものですかね。


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しばお

別にケチをつけるわけではないですが、ベルリンの壁の件。あれは確か先行して誤ってTVで報道されてしまったのだと聞きました。(これから壁が壊れると)そうでなければ、いきなり7万人も誰の主導もなく集まるなんて不自然じゃないですか?
群れの行動自体は納得するし、勉強になりましたが(~o~)


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kaoly

会社に<困った人>はいませんか。います。
だけど、「ボイドのルール」で考えれば、<困った人>も、群れを維持する必然的な要素ということになります。そう思うと、<困ったあの人>の存在も、個性として認められるような気がします。「ボイドのルール」。こんな雑学の知識が、人との距離を保つために役立つことがあるんですね。
8/20小橋さんのヴェスパさん宛てコメントですが、私は、入り口も出口も、そこに「自分」がいないと、意見なんてただ上すべりするだけだと思いますよ。




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 幼稚園は夏休み。家にいても仕事にならない、そんなときは家族揃って外に出る。博物館に行ってみたり公園で遊んだり。二歳半の次男に好評で、お兄ちゃんときゃらきゃら笑いながら遊んでいる。そんな夏の思い出も、十カ月の三男はもちろん、次男の心に留まることもないのだろう。それを思うといっそう、この夏が愛しくもなる。 記憶には短期記憶と長期記憶がある。長期記憶にはさらに、自転車の乗り方のように身体で覚える手続き記憶や、いわゆる知識である意味記憶、思い出などのエピソード記憶などがある。このうちエピソード記憶に関係する脳の部分は、生まれたあとも成長し、二歳から三歳頃になってようやく完成するという。小さな子がものごとを憶えていない、幼児期健忘はこれが原因だとか。 逆に、子どもの記憶力に驚かされることもある。オハイオ州立大学の研究者らが猫などの写真を見せて行った実験では、五歳児の方が大学生よりよく覚えていたケースがあった。これは大人がカテゴリーを利用するからで、写真を見るとき、つい「ネコ」というカテゴリーの写真として覚える。子どもはただ写真を見たままに理解して、映像的に似ているかどうかで判断する。だから二度目に同じ写真を見せられると、子どもは同定できるのに、大人は「ネコ」としか覚えていないものだからおぼつかなかったりするのだ。 大人になると、世界をそのままに見ることをしなくなるのだろう。見ているものに名前を与え、分類をしてしまって。同じ世界を見ながら、子どもとぼくではずいぶん違う光景を見ているに違いないと愕然とする。だから夏のひととき、公園の芝生の上で、コトバを離れて世界を見る。木は木でなくなってわさわさと音をたてており、頭上には吸い込まれそうな色のなかに白い造形物が浮かんでおり。世界はまったく違う姿でぼくの前に立ち現れ、その瞬間、ぼくは子どもと世界を共有する。

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 リスクという言葉は、人によって受け取り方がまったく違うかもしれない。避けるべきと考える人と、当然の前提と考える人と。本来リスクは、どんな事象にもついてまわる。ぼくたちに求められるのは、それを正しく評価し、意思決定を行っていくことだ。 リスク許容度を考えるとき、しばしば引き合いに出されるのが、百万分の一という数字だ。米国のスターが1969年の論文の中で、最低を自然災害による死亡率、最高を不治の病による死亡率として、その間で社会的便益とのバランスをとりつつリスクの許容水準が引かれると説いた。このとき、不治の病の死亡率が100万人当たり1万人、自然災害の死亡率が100万人当たり1人と見積もられている。このあたりが、百万分の一の由来らしい。 日本の交通事故による死亡率は百万分の一より高くて70くらいになるけれど、メリットが大きいから許容していることになる。自然災害による死亡数はスター論文程度だが、三大疾病による死亡数は100万人に5000人いかないから、リスクの許容上限は厳しくなっていると言えるかもしれない。 もっとも、こうして分母を揃えてリスクを比較することはまれで、ぼくたちはふだん、ヒューリスティックと呼ばれる、手近な方法で評価している。たとえば英語でrで始まる単語と3文字目がrの単語ではどちらが多いか、と尋ねると、多くの人がrで始まる方が多いと答える。実際には後者の方が多いのだけれど、記憶から探索しやすい方を、高い確率と評価してしまうのだ。 ヒューリスティックすなわちいいかげんというわけではない。現実問題として世の中すべてを考慮に入れることなどできないわけで、人工知能にヒューリスティックを持たせる研究もある。リスクの正しい評価は必要だが、たとえば敵を前にしたとき、適度なヒューリスティックがあったからこそすばやく対処できたのでもあろう。ぼくたち人類はそうやって、適度を学びつつ生き延びてきたのだ、きっと。

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