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ちょっと知的な雑学&トリビア

共食い

2003年12月11日 【コラム
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 あれは何の映画だったろう。ディナーテーブルの中央に猿が出され、脳をスプーンですくって食べる。そんなシーンがあったのだが。カニならともかくと思ったのは、共食い的な行為を嫌ったからだろう。もっともかにみそは肝臓だと後になって知ったわけだが。
 食人、カニバリズムの習俗については、長く議論されてきた。食人を伝える航海記に、売らんがための怪しい記述が多かったせいもある。カニバリズムの語源になったカリブ族の食人はコロンブスが報告したもの。異民族との出会いには、食人のうわさがつきものだった。もっとも、ヨーロッパ人から食人者と見なされた現地の人々もまた、白人が食人のためにやってくると信じたりしたし、奴隷をとるのは食べるためともみた。
 新たな研究では、プリオン病から守ってくれる遺伝子を多くの人が持っているのが、食人の結果として適応進化したためではないかと指摘されている。パプア・ニューギニアのフォレ族には、葬儀の宴で死んだ近親者を食べる習俗があったというが、そのため、致死性の脳の病気が流行した。その結果、防御遺伝子を持つものが生き残ってきたと。
 ほ乳類で共食いをするものにはライオンやクロコダイルなどが知られている。2003年に入って、マダガスカルで見つかった恐竜の化石から共食いの跡が見つかって話題を呼んだ。ただ、殺しあって食べたのか、死肉をあさったのかは定かでない。厳しい自然環境が背景にあったらしい。
 フェリペ・フェルナンデス=アルメストの『食べる人類誌』に、こんな引用がある。食べておいしいとされたのはフランス人、次は「嬉しいことに」イギリス人。「オランダ人はさえない味で胃にもたれるし、スペイン人は筋が多くて、煮込んだところで食べられたものではなかった」。暗く屈折して、しかしユーモアを感じないでもない。食人にまつわる複雑な感情をうかがわせる。

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11 comments to...
“共食い”
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小橋昭彦

プリオンと食人については「Balancing selection at the prion protein gene consistent with prehistoric kurulike epidemics」、日本語解説記事は「ディナーには脳みそを」です。恐竜の共食いについては「Dinosaur Cannibal Unearthed in Madagascar」をどうぞ。文中に紹介した書籍は、『食べる人類誌』です。


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しむしむ

> そんなシーンがあったのだが

恐らく「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」だと思います(違うかな)。
集まったVIP達は美味しそうに食べますが、今作でのヒロインは卒倒してしまう。そんなシーンだと思います。


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ちゅう

私もインディ・ジョーンズだと思います。
猿よりも虫(フナムシみたいなにょろにょろしたやつ)のほうが気持ち悪かった記憶が・・・


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ながさわ

新井素子の『ひとめあなたに』を思い出しました
この中に出てくる複数の主人公が、一週間後に迫った隕石地球衝突を前にとる行動が描かれています。

その中の一人に、不倫している旦那をシチューの具にして食べようとする主婦がいます。
やはりこの人物が一番印象に残っている作品です。
いくら、目前に逃げようのない死が迫っていて、気が狂っているとは云っても……と思ったのを覚えています。


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小橋昭彦

なるほど、インディ・ジョーンズ。確かに観てます。ありがとうございます。

それからごめんなさい、うっかりクロコダイルがほ乳類に読める表現をしていました。校正ミスです。訂正いたします。


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コギト

いつも感心しながら拝見しています。カリバリズムの語源もよく分かりました。私は漠然と中世ヨーロッパだと思ってました。
サルの脳みそを食べる映画は、多分、「インディージョーンズ」ではありませんか。「魔窟」でしたっけ。うろ覚えですみません。スピルバーグは蛇を出すから苦手なんですよ。
それから雁屋哲さん(美味しぼ)の「究極の美味」にも登場します。これはサルから人間になります。
雁屋哲さんは脳みそを食べる話は結構、書いてますね。読むとうまそうです。
人間の脳を食べるのは「ハンニバル」で有名になりましたよね。あの名前は韻を踏んでるんですね。「カニバル・ハンニバル」とか言ってましたよね、映画で。
そういえば小松左京の傑作「凶暴な口」でも、人間の脳を食べますね。でもこれは自分のだから、共食いにはならないか。。。


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むぅ

いつも楽しく拝見させていただいてますです。

>ほ乳類で共食いをするものにはライオンやクロコダイル0

この段落、ほ乳類なのはライオンだけですね。
小橋さんらしくない一文だなぁ、と思い思わず書き込み。


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えり

いつも楽しみにしています。
いつの間にか(いい感じの間で)、驚いたり、
考えたりしています。

「インディジョーンズ」のあの場面、私も印象的でした。
食人といえば、マイケル・クライトンの昔の小説ですが、「失われた黄金都市(だったかな?)」、アフリカが舞台で、食人族にふれて、昔は食人のための市場もあった、とかいうのがあったような。。(ビジュアルにうかんでしまって恐かった記憶が・・)


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土屋

いつも楽しませていただきます。
ところでクロコダイルは爬虫類ではないでしょうか?


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nao*

共食いと言えば、グッピーなんかは、産卵用のケージに入れて、子供とすぐに分けなければ生んだ自分の子供を食べてしまいますよね。

あれはどういう理由なんでしょう。。


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トド

「サルの脳みそを食べるシーン」はヤコペッティの「世界残酷物語」という映画の中で紹介されていたように記憶しています。もしかしたら違う映画かも知れませんが、モンド映画と呼ばれる残酷な映像を集めたドキュメンタリー(ヤラセもあったかも知れない)が流行った時期がありました。




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 運動器。骨や間接、筋肉や神経といった身体を動かす組織、器官のこと。WHOが協力して世界各国で研究を進める、運動器の10年という取り組みが行われている。腰痛やスポーツ障害、骨粗しょう症など、運動器に関わる障害は多い。これらを解明し、生活の質を高めていく。 思い出したのは、人型のロボットの解説で出会った「自由度」という言葉だった。ひとつの関節で、前後に動かすことができれば1自由度。上下にも動けば2自由度。回転や伸縮なども自由度に加える。人間の腕は、肩に3つ、ひじに1つ、手首に3つ、合計7つの自由度を持っている。ところが理論上は、運動関節軸が位置と姿勢を決めるためには、全部で6つの自由度があればいいという。人間は1つ余分な自由度を持っているわけで、これが行動の柔軟性を生んでいる。 人型ロボットを研究する早稲田大学ヒューマノイド研究所の高西敦夫博士らが1996年に開発した人型モデルは、片足3自由度、体幹3自由度、片腕7自由度、片手3自由度、首2自由度、そして片目2自由度の合計35自由度からなっている。人間の場合はというと、片手だけで5本の指それぞれに3つの曲げと1つの旋回、合計20自由度。 加えて、たとえば表情を考えると、皮膚や筋肉の弾力性といったことも考えに入れなくてはならない。弾力性のある物質を制御する理論や技術はまだ確立していない。人の身体の、なんという自由さ。逆に言えば、ロボットと違って冗長性を多く持っていることが、人間らしさにつながっているわけでもある。 今後、人型ロボットの研究を通じて運動器の仕組みに新しい視点がもたらされることもあるだろう。障害を受けた運動器をサポートする小さなロボットが生まれることもあるだろう。ぼくたちは自らの自由度を、どれほど活用しているか。ロボットという外部を探求することで、ぼくたちは自らを知ろうとしている。

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