ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

かたち

2003年11月17日 【コラム
Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

 ぼーる。ちょちょ。くんま。次男が、絵本を指差しながら片言をしゃべる年齢になった。わからないものが出てくると、「こーは」と尋ねる、「ぶどう」と答えると、力強く「ぶど”」と言ってけらけら笑う、描かれた形と言葉を一致させるだけで充分な遊びになっている。それまで曖昧模糊とした何かが、その瞬間に「ぶどう」に結晶しているのだろう。
 彼の視点で今、言葉をはぎとって形だけで世界を見ると、不思議が広がる。目の前にある数十の突起を持つ角ばったものは何であるか。(キーボードだ。)道の上でくねるにょろにょろは何であるか。(ミミズだ。)この突起の多いふにゃふにゃと生暖かいものは何か。(ヒトだ。)言葉をはぎとってなお、言葉でしか表現できないのがもどかしい。
 形で世の中を見ると、ときに新鮮な発見がある。「形の科学会」のウェブサイトには「なぜ形なのか」という解説があり、ウェーグナーが南北アメリカとアフリカの海岸線の形に着目したのがプレートテクニクスに発展したこと、プラトンの正多面体に代表される立体幾何学によって宇宙モデルを作ろうとしたケプラーが、惑星軌道の法則を発見したことなどが紹介されている。
 金平糖の形成を研究した寺田寅彦は「重要だが今は歯が立たない」という主旨の報告をしているが、その見立ては現在にも通用する。金平糖形の尿路結石の原因を探ったり、ナノテクで金平糖に似た汚れ分解繊維を作ったり、金平糖の形は今もさまざまな分野で注目され活かされている。しかし、成長のもとになる最初の凸がなぜできるのかはわかっていない。
 道のにょろにょろも、このふにゃふにゃも、同じように命を宿している。どちらも、口から排泄口まで続く管とみれば同じ形ということか。もっともそれが生命の本質でもあるまい。いくら形に分解しても、生の息吹はまた別のところにある。そこがまた不思議なところでもある。

Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

One comment to...
“かたち”
Avatar
小橋昭彦

形の科学会」をご参照ください。参考書として形をさまざまな視点から取り上げた『かたち探検隊』がおすすめ。




required



required - won't be displayed


Your Comment:

 コンピュータの高速化が寄与する分野のひとつにシミュレーションの精度向上がある。たとえば地球大気の様子をシミュレートするためには、地上を網目状に区切って、それぞれの箇所の値の変動を予測する。このとき、網目が小さいほど精度があがるわけだが、そのためには膨大な計算量が必要になる。スーパーコンピュータが活躍する場面だ。 もっとも、いくらデータ量を増やしても、長期の予測は難しい。気象学者のローレンツが1963年に発表した考え方で、俗にバタフライ効果と呼ばれるものがある。北京で蝶が羽ばたけば、ニューヨークで嵐が起きるという表現で知られている。ただこの表現は、北京の蝶を知ればニューヨークの天候がわかるといった因果論的な勘違いを生みそうだ。そうではなく、ほんのささいな差が結果の大きな違いを生むから、いくら細かく初期値を知ろうとしても、予測精度はあがらないというわけだ。どれほどのスーパーコンピュータでも、北京の蝶の羽までは知ることができない。 ローレンツの論文は発表誌が気象専門誌だったこともあって当初は注目を集めなかった。しかし、70年代のカオス理論の興隆とともに、カオスを探っていた先例として掘り起こされた。ローレンツのモデルを図示すると、蝶のような姿になる。いま、初期値をほんの少しだけ変えて入力、シミュレートすると、値の変化が描く線ははじめは重なっている。左の羽を描いたかと思うと気まぐれのように右の羽を描く。やがてふたつの線は離れ、一方は右半分で羽を描いているし一方は左半分で描く、というようにまったく違う結果につながる。カオスとは、そういう世界。 北京の蝶に、人は何を思うだろう。けっきょく未来を知ることはできないとむなしく感じたり、あるいは逆に、われわれ小さな存在でも、世の中に対して何らかの影響を及ぼせるのだと勇気付けられたり。とまれ、その思い、羽ばたきそのものは、ぼくたちの意志のうちにある。

前の記事

 5歳になった長男が、ときどき「右ってどっちやったっけ」と確かめる。「お箸を持つ方」と古典的な答えをしつつ、左利きを考慮していないと自らを責める。辞書にはどうあるのかと広辞苑をあたってみて、「北を向いたとき、東にあたる方」とあって目からうろこが落ちた。北斗を見上げて、朝日に白む方向が右。右を思うたび宇宙と一体化できるこの説明はすてきだと、しばし感動する。 利き手を調べるにはどうするだろうか。ボールを投げるというのがよく使われる方法。消しゴムを持つ手、絵を描く手といった調べ方もある。では利き足はどうだろう。ボールを蹴る足、階段を最初に踏み出す足。利き目はどうか。このあたりから少々難しくなる。望遠鏡をのぞく目、鍵穴をのぞく目。利き耳となるとはたしてあるのかから議論になるが、他人の心音を聞くために胸にあてる耳などでそれと判定される。まあしかし実際には、右か左か二分されるのではなく、連続的に移行するものと考えた方がよいようだ。 右と左といえば、今では右の方が優位にとらえられている。役立つ部下は右腕だし、自分より優れたものは右に出る。こうした傾向は広く見られるようで、英語のrightも「正しい」という意味を持つ。古く日本では逆に左が優位で、右大臣よりは左大臣の方が偉い。もっとも右か左かを論じるとき、それ自体を基準にする本位呼称か、向かってを表す対面呼称かは明確にしないといけない。 彫刻家の城田孝一郎氏の文章に、現代は対面呼称が多いという指摘があって、はっとする。そういえばある辞書に「左前」は相手から見て左の衽(おくみ)が上になることと説明されていたが、実際には外側の衽が自分から見て左胸で前になるという、本位呼称だったかもしれない。辞書に対面呼称が使われるのはよしとして、日常生活において、相手の身になった表現が少なくなっているとしたらさみしい。

次の記事