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ちょっと知的な雑学&トリビア

バスを待つ

2003年9月04日 【コラム
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 路線図に現在の走行位置が示されるバス運行システムを初めて見たのは仕事先に向かっていた奈良でのことだった。それからおよそ十年、当時住んでいた京都でも携帯電話によるバスの位置情報サービスがはじまった。
 時刻表通りに来ないバスを待つ辛さは、多くの人に経験があるだろう。待っているときに限って、逆方向のバスばかり何台も通り過ぎる。皮肉のひとつも言いたくなるが、実はこれはあたりまえで、自分が乗りたいバスが先に来たらそれに乗るわけだから、同じ条件で自分の方向のバスを数えることはない。一面的な現象しか起こらないのを皮肉にとらえてしまう、心理的なバイアス。
 大正期に東京都心部で走っていた路面電車も、混雑や遅れが日常茶飯事だった。これを冷静に観察したのが物理学者の寺田寅彦で、その名も「電車の混雑について」というよく知られた随筆を残している。待つ時間が長くなるとそれだけ待ち人が増え混雑する、最初に来た電車にみんな乗ろうとするから一台目は乗降に時間がかかり、二台目は人も少なく追い上げる。これが繰り返されるから、電車はどんどん数珠つなぎに。
 大正11年6月19日、寺田寅彦は、神保町近くの停留所で数十分間、この事実を検証した。それによると、およそ40台通り過ぎたうち、2分以下で後続の電車が来たのは23回、4分以上待たされたのが4回あったという。じゃあ待っているとたいていは2分以内で来るのかと考えてしまうけれど、これもよくある勘違いで、待ち時間をかけないといけない。すると2分以内に電車が来るのはおおむね3回に1回に過ぎず、たいていは長く待たされる。
 寅彦の出した結論は、電車は二台目ないし三台目のすいたものに乗るべし。到着時刻に差はない上、待つ間は思索にふけり、車中では座って体を休め、書籍などを読むことができる。金平糖やキリンの縞模様、人魂などの研究をしたことでも知られるユニークな学者、寺田寅彦。バスを待っても器が違う。

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5 comments to...
“バスを待つ”
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小橋昭彦

寺田寅彦については、手ごろな『科学と科学者のはなし』などで、彼自身の随筆を読むのがいちばん。入門としては、近刊では『寺田寅彦は忘れた頃にやってくる』をどうぞ。ウェブでは、「バスの遅れ対策」もご参考にどうぞ。

ところで、前述の書籍でタイトルがもじられていますが、世間的には「災いは忘れた頃にやってくる」という警句を残した人という方が通りがいいかな。ノーベル賞をとってもおかしくない研究結果も残しているそうですね。ちなみにアインシュタインと同世代です。


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松本秀人

子供の頃、なかなかバスがこないのにイライラしていると、母が「ほら、反対側のバスが来たから、こっちも間もなく来るわよ」といつもいっていました。よく考えればあまり根拠のない話なのですが、“向こうが来たのに、こっちはまだ”と不満に思うのではなく、“向こうが来たから、こっちも”と楽観的に考える諭し方は、なかなか妙味であったなあ、とそんなことを思い出させてくれるコラムでした。


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rnakaji

バスがくるパターンの統計的バスの遅れ対策としては大変役に立ちますが、待っている個々の事象の対策にはならないのがつらいですよね。
前のバスが混んでいるから、次のバスは続いてきて空いている、というのも統計的なデータであって、バスが混む要因は他にも色々あって、自分が待っているバスにはどのような要因が発生しているかわからないですものね。統計的に動であろうと、最悪を考慮して対策を心づもりしておく必要が有るのでしょうね。そうしてみると、やっぱり常用なのは余裕ですかね。


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浜のカズ

「電車の混雑について」の話し大変共感持ちました。
この話しを読んで、昔読んだ孫子の兵法「紆余の計」を思い出しました。「紆直の計」というと普通連想されるのが、わざと遠回りの道(距離)を通って敵を油断させ、その実敵よりも早く目的地に到着して優位に立つ。と言うものだと思いますが、この「紆直の計」実は2種類あるそうです。前記の一般的なものは距離の「紆直の計」、そしてもう一つは時間の「紆直の計」と呼ばれるものです。時間の「紆直の計」はわざと時間を掛けるふりをして、相手の油断を誘いながら結果的には相手より先に目的を達するというものです。うら覚えですが、かの武田信玄もある戦いで戦場に向かう途中わざと停止して宴会を初め、それを敵側に流して油断させ、敵が油断したところで一気に急襲、勝利を収めたという時間の紆直の計にて勝利を収めたことがあるそうです(武田信玄は孫子の信奉者でした)。
路面電車(バス)をわざと1台やり過ごして、1台目の乗客より多くの益を得る。というところで時間の紆直の計を連想したのでした。


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hal

南会津の山奥で、バスに乗ろうとバス停に行ったら、到着は夕方のみ、出発は朝のみというのがありました。
今でも、2・30分前からバスを待っている風景をまま見掛けます。
時間の感覚が違うのですね。ちょっと前までは、距離を述べる単位として、「ひとみち・・・約1時間」というのもありました。
ふと、そんなことを思い出したので...




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 感情を抑制し理性的になることが進歩とされていた時代があったように思う。未来の人間は無表情で論理的に描かれて。そう、SFドラマ『スタートレック』の異星人ミスタースポックのように。その光景が懐かしいのは、おそらく現代では、感情はむしろ肯定的にとらえられるようになったからだ。こまやかな感情表現が人間性を表し、機微に通じることがよしとされる。 それでもぼくたちは、感情は社会から理性で隠した、マグマのように心の底にある裸の心のようなイメージを抱いている。でも、実際には感情とて社会に規定されている。こうした考え方を感情社会学として提唱しているのがホックシールドで、彼女によれば感情は二段階を経て生まれるという。最初に理想像があり、現実とのギャップから感情が芽生える。夫婦仲むつまじくあるべきなのにけんかをしたといった状況から、「悪いことした」という罪悪感が生まれるように。ところが、その人が生きている社会に「女に頭を下げちゃいけない」なんて風潮があると、自分の感じている罪悪感とのギャップが生じる。そこでまた新しい感情が求められる。感情というのは、こうして二重に社会的に操作されているというのがホックシールドの論。 感情表現にも差がある。喜びや怒りの表情をアメリカ人とインドネシアのスマトラ島の住民にしてもらい、何を感じるか調べた研究では、アメリカ人は表情に対応した感情を知覚するのに対し、スマトラでは顔面の変化は感情と知覚されなかったという。この実験を行ったレヴィンソンらは、スマトラでは顔面筋の変化より人間関係における経験を重視しているからと分析している。 悲しいときに悲しまないと異端視される。ぼくたちが感じる悲しみあるいは喜びは、どこまでが本当の自分の気持ちで、どこからが社会にあわせたポーズなのか。いや、そもそも「自然な」感情なんて、どこにもないのかもしれない。

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