感情を抑制し理性的になることが進歩とされていた時代があったように思う。未来の人間は無表情で論理的に描かれて。そう、SFドラマ『スタートレック』の異星人ミスタースポックのように。その光景が懐かしいのは、おそらく現代では、感情はむしろ肯定的にとらえられるようになったからだ。こまやかな感情表現が人間性を表し、機微に通じることがよしとされる。
それでもぼくたちは、感情は社会から理性で隠した、マグマのように心の底にある裸の心のようなイメージを抱いている。でも、実際には感情とて社会に規定されている。こうした考え方を感情社会学として提唱しているのがホックシールドで、彼女によれば感情は二段階を経て生まれるという。最初に理想像があり、現実とのギャップから感情が芽生える。夫婦仲むつまじくあるべきなのにけんかをしたといった状況から、「悪いことした」という罪悪感が生まれるように。ところが、その人が生きている社会に「女に頭を下げちゃいけない」なんて風潮があると、自分の感じている罪悪感とのギャップが生じる。そこでまた新しい感情が求められる。感情というのは、こうして二重に社会的に操作されているというのがホックシールドの論。
感情表現にも差がある。喜びや怒りの表情をアメリカ人とインドネシアのスマトラ島の住民にしてもらい、何を感じるか調べた研究では、アメリカ人は表情に対応した感情を知覚するのに対し、スマトラでは顔面の変化は感情と知覚されなかったという。この実験を行ったレヴィンソンらは、スマトラでは顔面筋の変化より人間関係における経験を重視しているからと分析している。
悲しいときに悲しまないと異端視される。ぼくたちが感じる悲しみあるいは喜びは、どこまでが本当の自分の気持ちで、どこからが社会にあわせたポーズなのか。いや、そもそも「自然な」感情なんて、どこにもないのかもしれない。
感情の社会的な位置づけについては、たとえば『感情の社会学』という書籍をご参照ください。また、「自分って何」でとりあげた文化心理学も近い分野です。「社会構築主義と感情の社会学」もご参考に。
いつも楽しみに購読させて頂いております。小橋さんの書かれる文章の目の付け所にはいつも、うんうんとうなずかずにはいられない感じです。
今回は「感情」と言うテーマですが、我々日本人は元来「忍」を美徳としてきた人種で中々感情表現が上手いとは思っていませんでした。しかしながら「阿吽」の呼吸と言う言葉もあり、お互いのアイコンタクトで済ますことが出来ていたように感じていました。
しかしながら・・最近は益々感情表現が・・異常な表現となり、青少年の凶悪犯罪が増えてきています。これも感情表現の異常現象ではとも思います。
悲しい時に泣いて、楽しい時に笑う!健康に一番良い事とも聞きます。一番小さな集団生活「家族」で素敵な感情表現を養っていけると良いのになって思いました。
これからも素敵なコラム楽しみにしています。
もっとも自然な状態としての新生児の感情は快、不快であって表現は泣くことだけど、泣くのは不快の直接表現でなく、保護者への依存を表現しており、保護者の泣く、即保護の反射を刺激しているという論文がありました。
内的な感情と対外的な感情表現は本来全く別なもののようです。ともかく、感情表現は多様でなくては社会的とは言えないのではないでしょうか。自ら多様な感情表現を持っていないと、他人の感情を斟酌することも難しいのではないでしょうか。