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ちょっと知的な雑学&トリビア

パーコレーション

2003年8月18日 【コラム
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 ビンゴゲームはご存知だろうか。主催者は1から75より無作為に数字を選ぶ。参加者は5行5列25マスにランダムに数字が書かれたカードを手にし、一致する数が出ればそこに穴を開ける。5マス連続して開けば「ビンゴ」。10個も穴を開けないうちにビンゴになる幸運な人もいれば、20個近く開けてようやく並ぶという人もいる。もっとも多いのは、およそ15個くらいでビンゴになる人。マスは全部で25個あるから、6割くらい開いたところでビンゴという人が多いわけだ。
 この6割という数字に、意味がある。たとえば碁盤の上にランダムに黒石を置き、その目が何割ほど埋まったとき、上の端から下の端まで縦横をたどって黒石がつながるか。これも、およそ6割なのだ。仮に碁盤を無限に広げて行うなら、この数字は正確には59.27%ということになる。こうしたつながりを考える分野、専門的にはパーコレーション理論と呼ばれている。
 理論によると、59.27%という数字はつながり方や空間の次元数によって差があり、たとえば3次元空間で単純な立方格子にするなら、3割そこそこが埋まるだけで端から端までつながる。見方を変えて、ひとつの点からどのくらい接点が出ていれば、無限の向こうまでつながることが可能か。答えは、二次元で4.5、三次元で2.8。重複を除くならだが、ぼくたちはひとりあたり4.5人を知っていれば、地球上の誰とでも、知人をたどれば必ずつながることになる。
 ぼくがパーコレーションという言葉を知ったのは、社会人になった頃だった。たとえ無限の向こうとでも、何割かの升目を埋めるだけでつながるということがとてもやさしく思え、印象的だった。そして十数年。ネットワークについて調べていて、ぼくは再びパーコレーション理論に出会う。それは、自分自身にとっても自らを模索してきた期間。時を隔てて自分自身もまた、網目の向こうの自分とつながっているのだった。

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14 comments to...
“パーコレーション”
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小橋昭彦

『パーコレーション??ちょっと変わった確率論入門』という著書の「序文・組見本」のところの解説を少しばかり参考に。「パーコレーションをシミュレートする。」で試してみるのもおもしろいかも。個人的に思い出深い著書は『パーコレーションの科学』ですが、同じ著者による『つながりの科学』が一般向けでおもしろいです。


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中野 勲

つながりということについて、考えさせられました。大変面白かったです。いつもありがとうございます。

4.5人知っていれば、世界中の人とつながるといわれますが、それは確率的な話ですね。たぶん、つながらない確率が無限に小さくなると言ったーーー。でも、無限に小さくなっても、つながらない確率はゼロではないのでしょうね。そこが気になりました。

中野 勲


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小橋昭彦

中野さん、ありがとうございます。

>それは確率的な話ですね

確かに確率的な話ではありますが、逆に「必ず」つながる条件としての4.5という数字なんです。「必ず」つながる(不確実な世界から確実な世界へ相転移を起こすということです)ところを探るのがパーコレーション理論のおもしろいところかなあと。


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xxx_KA

 久し振りにこのページを覗いたのですが、ずっと続けておられて関心しました。継続は力ですよね、これからも頑張って下さい。応援しています。
 ところで、2次元で4.5ですか、碁盤で考えると上下左右に4つの手しか持てませんよね。と言うことは、人では無限に広がることは出来ても、碁盤では無限には繋がらないと言うことになりますが。??


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石山孝史

初めてお便りいたします。
何気なく申し込んだこのサイト、単なる「雑学」ではなく、非常に専門性が高く“目から鱗”状態です。
パーコレーション理論によれば、得意先の拡大を必死の思いで追及している私には、福音書のごとく、「ぼくたちはひとりあたり4.5人を知っていれば、地球上の誰とでも、知人をたどれば必ずつながることになる。」とのことで、営業拡大に確信がもてました。
「意図が明確であれば方法はいく通りもあり、4.5人のつながりを生かしてがんばれ0」と社員にハッパをかけます(笑)。


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小橋昭彦

xxx_KAさん、ありがとうございます。

4.5あれば「必ず」つながるということであり、それ以下ならつながらないということじゃないんです。なので、4.5以下でも矛盾はなく、有限の場合はまた違った数字になろうかと思います。

石山さん、ありがとうございます。はい、いわゆる「雑学系」にはない内容かとは思います。おっしゃっていただいているような、日々の糧になればなによりと願って日々書いております。今後ともよろしくお願いします。


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ヴェスパ

初めまして。
メールマガジン、いつも楽しみにしています。
一つのネタから人の在り方や考え方を指摘する。
そんなに多い行数ではないのに、毎回すばらしくまとまってますね。
ただ情報を得るだけでなく、考えさせられる。
1回で2度楽しめる内容だと思います。


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ヴェスパ

ところで、前回のベーコン数とは数字が異なってくるんですね。
視点の違いでしょうけど。

悪評も 4.5人で 世界中


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rnakaji

前回と関連した内容ですね。これは逆説的に言うと、全く独立したグループは4.5グループ以上は構成できない、ということなんでしょうか。全く重複しない事象どんな事象なんでしょう。


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ヴェスパ

ん?
独立の概念と重複の概念が不明ですが、4.5人たどれば関連がでる以上、「3人以上たどらないで」と言うような決まりがないと関連が発生するのでは?


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ヴェスパ

なんかちがうな・・・


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小橋昭彦

ヴェスパさん、rnakajiさん、ありがとうございます。

前回のベーコン数は、点から点へたどっていく経路の数を表しているのに対し、今回の4.5というのは、一点からの紐帯の数です。ひとつの点から何本の触手が出ているかという数。

なので、ひとりあたり4.5人知っていれば、世界中の人がつながることは確かなのですが、誰かにたどり着くためには6人の経路をたどるかもしれませんし、20人たどらなくてはいけないかもしれません(こちらが「ベーコン数」)。

普通ひとりあたり4.5人は知っていそうなので、じゃあ間違いなく世界中の人がつながっているじゃないかと考えてしまいますが、AさんとBさんが4.5人ずつ知っていても、同じ人を知っていたのでは重なってしまって、つながりが広がりません。そういう重複を数えないようにしないといけないのです。そうなると、さて平均4.5人知っているかどうか。


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ヴェスパ

なるほど、よくわかりました。
んー、もっと考え方を考えないとなぁ。
修行します。


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みっくん

ありがとうございまーす!




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Your Comment:

 ベーコン数あるいはエルデシュ数として知られる概念がある。出演した映画の共演者をたどることで何人目にケビン・ベーコンにいきつくかを表すのがベーコン数で、彼と共演していたら1、彼と共演している人と自分が共演していたら2となる。エルデシュは数学者で、この場合は論文の共著者をたどる。 たいていの役者はベーコン数3までにおさまる。日本の役者で調べてみると、高倉健や吉永小百合、織田裕二も木村拓也もベーコン数3。吉永小百合は『千年の恋』で松田聖子と共演し、松田聖子は『アルマゲドン』でキース・デビッドと共演し、キース・デビッドは『ノボケイン』でベーコンと共演している。もっとも、だからといってベーコンがハリウッドの中心というわけではなく、おおむね誰をとったって、似たような結果になる。 人と人のつながりは「6次の隔たり」としても知られる。1967年に行われた、社会学者ミルグラムによる実験がきっかけ。意図なく選ばれたボストン在住の株式仲買人に、やはりランダムに選ばれた人たちから何ステップでつながるか、というもの。あて先を示した手紙を160人の人に渡す。あて先の仲買人を知らない場合は、知っていそうな人に渡してもらう。結果、42通が仲買人に到達。その平均ステップ数が5.5だった。ぼくたちは誰とでもおよそ6人でつながる。届かなかったおよそ120通の手紙が無視されているが、まあそれはよしとしよう。この結果に刺激されて作られた舞台が大ヒット、『私に近い6人の他人』という映画にもなった。 小さく狭いぼくたちの世界。ネットワーク研究のバラバシらは、細胞内の化学物質のほとんどが3つの化学反応経路によってつながっていること、30億を超えるインターネットのページも、およそ19クリックすればほとんどのページにたどり着けることを報告している。ぼくたちは、そういう、つながりの世界に住んでいる。

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 国立国語研究所で外来語の言い換え提案が行われている。案の中に「アイデンティティー」が含まれていて、「自己認識」「独自性」「自己同一性」といった言い換え例があげられていた。identityというつづりには「I」が含まれているけれど、たとえば米国人の「I」と日本人の「自己」はずいぶん違うだろうとそんなことを考える。 日米の子育てを20年にわたって比較研究してきた結果がある。アメリカの子育ては子どもが独立した思考によって選択・主張することを重んじるのに対し、日本の子育ては社会における役割を受け入れることを重視するという。そういえばぼくも子が電車内で騒いでいたら「他の人が迷惑するでしょう」と叱る。社会という視点を与えているわけだ。 国際比較調査に「私は……」に続いて自己記述を書かせるものがある。「私は会社員だ」「私は母親だ」といった社会的な役割を記述する割合は、アメリカ人よりアジア系の被験者が高くなる。逆に「親切だ」などの抽象的記述は、アメリカ人で6割近くあるのに対し日本人は2割弱。ところが質問を「家庭で私は……」のように限定した状況にすると、日本人は抽象的な記述をする割合が倍増し、アメリカ人は半減する。日本人は周囲との関係があってはじめて「親切」といった内的属性が認識されるのに対し、アメリカ人にとっては周囲の状況はむしろ限定要因なのだ。 どちらが優れているという問題ではない。アメリカ人がアイデンティティの確立を重視するとすれば、それはそういう教育なり社会環境なりがあるからで、そういう意味で個人が文化との相互作用によって成立するという点に違いはない。自分っていうのは、ただひとつの個体じゃなく、文化と呼吸しあって成立してきたダイナミックな何かなんだ。ぼくたちが誰かとつきあうってことは、その人が生きてきた歴史や文化と向き合っているってことでもあるんだよね。

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