国立国語研究所で外来語の言い換え提案が行われている。案の中に「アイデンティティー」が含まれていて、「自己認識」「独自性」「自己同一性」といった言い換え例があげられていた。identityというつづりには「I」が含まれているけれど、たとえば米国人の「I」と日本人の「自己」はずいぶん違うだろうとそんなことを考える。
日米の子育てを20年にわたって比較研究してきた結果がある。アメリカの子育ては子どもが独立した思考によって選択・主張することを重んじるのに対し、日本の子育ては社会における役割を受け入れることを重視するという。そういえばぼくも子が電車内で騒いでいたら「他の人が迷惑するでしょう」と叱る。社会という視点を与えているわけだ。
国際比較調査に「私は……」に続いて自己記述を書かせるものがある。「私は会社員だ」「私は母親だ」といった社会的な役割を記述する割合は、アメリカ人よりアジア系の被験者が高くなる。逆に「親切だ」などの抽象的記述は、アメリカ人で6割近くあるのに対し日本人は2割弱。ところが質問を「家庭で私は……」のように限定した状況にすると、日本人は抽象的な記述をする割合が倍増し、アメリカ人は半減する。日本人は周囲との関係があってはじめて「親切」といった内的属性が認識されるのに対し、アメリカ人にとっては周囲の状況はむしろ限定要因なのだ。
どちらが優れているという問題ではない。アメリカ人がアイデンティティの確立を重視するとすれば、それはそういう教育なり社会環境なりがあるからで、そういう意味で個人が文化との相互作用によって成立するという点に違いはない。自分っていうのは、ただひとつの個体じゃなく、文化と呼吸しあって成立してきたダイナミックな何かなんだ。ぼくたちが誰かとつきあうってことは、その人が生きてきた歴史や文化と向き合っているってことでもあるんだよね。
文化心理学という分野があって、「北山忍」教授らが代表的研究者です。その著書『自己と感情』はたいへんおもしろくおすすめ。コラムで引用した日米比較は『日本人のしつけと教育』の東洋教授によるもの。あと、「「外来語」言い換え提案」もご参考にどうぞ。
外来語の言い換え(第2案)、先日拝見しました。
「ユビキタス」は「時空自在」でしたっけ….
日本語にしても分かりにくいですよね。
「たん」は笑いました。これもアイデンティティ、
社会との関わり、の端緒ですね。
我が娘ももうすぐ2歳。そんな年頃です。
初めまして,テラと申します.
ご存知の方もいらっしゃると思いますが,
通信教育のZ会に勤務し,会員限定のメールマガジンの発行編集長(?)をやらせていただいております.
(ちなみに「テラ」は,そこで登場する私のキャラクターです.いつかは会員ではなくても購読できるメルマガをやりたいんですけどね)
いつも『今日の雑学+』は業務の一助として大変役に立っております.
発行しているメルマガの種類の中で,携帯版に
「時事用語メルマガ」と称しているものがあるのですが,
そこでこんなのを出したんですね.
【ユビキタス】ラテン語で「どこにでも存在する」という意味の言葉.
生活環境の様々な場面にコンピュータが存在し,自在に活用できることを指す.
国立国語研究所の外来語委員会が先日発表した言い換え語としては「時空自在」という言葉があてはめられる.(以下略)
そしたらある会員から「天声人語のパクリだ!」と言われてしまいました(苦笑).
確認すると,確かに8/8の朝日新聞の朝刊がそんなヤツで.
でも,天声人語のパクリなんて,そんな危険なこと(笑)絶対やらないんですけど…とか
定義と記事の紹介は事実なんでどうしようもないんだけどなあ…とか(以下略の部分がオリジナル).
とは高校生にはわからないかな.さすがに
今回の記事の冒頭も,もしメジャーな新聞で「アイデンティティ」が取り上げられていたら,高校生にはパクりと捉えられるのかなあ,と思ってしまいました(笑).
やっぱりこの記事って,思わず「くすっ」となりますからみんな注目するんですね.
自分は,「ユビキタス」という用語が,「高校生はあまりなじみないだろうけど結構使われる用語→だから知っておこう」という意味で取り上げたんですけどね.
と,記事と「通りすがりのひとみ」さんの投稿を見て書きたくなってしまいました.
これからもメルマガに期待しています.
追:学生時代は環境工学専攻でしたので,etcで取り上げられる記事もいつも興味深く読ませていただいています.
「アイデンティティ」というと、中島敦の「悟浄出世」を思い出します。自らの個性について意識することは、その個性に対する疑問も意識せざるを得ない。自分自身で意識しないところに自己がある。
神の審判は自己責任で受ける社会は速やかな自己確立が必要になるのでしょう。他人の助けは得られないから。社会が相手だと立場によっては甘えられるし、親兄弟や世間の助けが得られる。そのためには社会や家族への従属性が必要なんじゃないでしょうか。
>日本の子育ては社会における役割を受け入れることを
>重視するという。
>そういえばぼくも子が電車内で騒いでいたら
>「他の人が迷惑するでしょう」と叱る。
>社会という視点を与えているわけだ。
では、この(電車で騒ぐ子供を注意する)場合、
アメリカではどういうふうに躾けているのでしょうか?
マナベさんありがとうございます。ごめんなさい、個別事例としてのアメリカの場合はわかりません。一般論から演繹するなら、「神様が見ているでしょ」とかかなあ、と思います。社会的な視点ではなく、個人としてどうあるべきかという価値観ですね。