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ちょっと知的な雑学&トリビア

まなざし

2003年8月11日 【コラム
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 邪視という言葉を知ったのはイスラム文化を学んでいた学生時代だった。ねたみやうらみといった邪悪な視線で見られると災いが起きると今でも信じられている。ギリシア・ローマ時代の地中海地域など広く各地で伝わってきた風習だが、日本や東アジアではそれほどみられない。
 以来、視線の持つ力が心の隅にひっかかっている。先日、とある大学の研究室で、日本に衛生思想が入ってきた明治期以降の「まなざし」の力について示唆を受け、あらためて長年のひっかかりが頭をもたげたのだった。そうした視点で見直すと、サルトルもラカンも、メルロー・ポンティもレヴィナスも、まなざしをとりあげている。まなざしは、哲学の中心テーマでもあった。
 スーザン・ソンタグの新しい写真論を手にとったのも、その書名が『他者の苦痛へのまなざし』だったから。写真が現実との関係において持つ可能性と限界を指摘するこの書籍の中で、印象的だった一節がある。「写真を撮ることは枠をつけること、枠をつけることは排除することである」というのがそれ。そうなのだ、現実の一瞬を定着する写真でさえ、事実を透明に伝えることはない。定着された一瞬の前後、あるいはカメラのフレームの外に、真実があったかもしれない。
 美容の歴史を研究する石田かおり氏は、まなざしを変えることの重要性を指摘している。まなざしを変えるとは、一点に集中する基準を多様化し相対化すること。それを意識していないと、個人の独自性、社会の多様性が縛られていくと。
 ぼくたちは、街中で気軽に写真を撮れる道具を手にするようになった。でも、写そうとしているもの、写されたものがすべてではない。現代において邪(よこしま)な視線とは、むしろ何かを見ないことから生まれるのかもしれない。たいせつなのは、何を見ているかより、何を見ていないかなのだ、きっと。

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5 comments to...
“まなざし”
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小橋昭彦

気になる方は、ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』をどうぞ。また今回『思考の用語辞典』も参考にしました。邪視については「邪視」の解説をどうぞ。「中央アジアのイスラム復興」内にある結婚式の通知を読むと、いまも邪視が生活に溶けこんでいるのがしのばれます。


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yosida shouta

サン・テグジュペリ『星のおおじさま』のセリフ、「肝心な事は目に見えない」ですよね。見れていない部分を見る事によって人は大きく育つ。

それを成すには、限定せず、色んな物や色んな人、そしてその人の持つ考え方なんかを知る事が肝心なんですよね。そういった場合、世界中を旅したりするのがもっともいいのかもしれませんが、それはもちろん大変な事なので、僕個人の考えとしては、その大きな人間になる為に一番効率のいい方法は、あらゆる人や国の映画を見る事ではないか?と思います。これで随分、器のでかい人間になれるでしょう。

特に日本人は、固まるのが好きで、そして自分の世界を大切にする性質。それはつまり、他の個性の破棄に繋がる。だから、私達はもっと外交的に生き、自分の世界をただ守るのではなく、自分の世界を大きく広げていかなければならないのだと思います。


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夢酔

荒俣宏「帝都物語」では加藤保憲の五芒星を染抜いた手袋が印象的でしたが、これは魔除けとしての意味があるそうです。五芒星の元と言われている籠目は目がたくさんあることから邪視を逸らす力があると言われており、玄関や軒先に籠をかける風習もそこから来ているそうです。
魔の目にとまらないのが魔除けである一方、将軍や殿様などに会うことができる人は「お目見え」という言葉もあるし。見る見られるはその動作以上に言葉や風習の中にも深く根付いていそうですね。


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小橋昭彦

ごめんなさい、文中、石田かおりさんのご紹介で「美容の歴史」としていますが、正確にはより大きく「化粧文化の研究」とご紹介したほうが適切でした。

夢酔さん、ありがとうございます。日本でもあることはあるのですね。南方熊楠も研究していたようですが。日本人はアイ・コンタクトを避ける傾向があると思いますが、そのあたりの文化、社会、精神の違いも考えてみるとおもしろいですね。


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rnakaji

邪視というのとは少し違いますが、目の持つ力というと、歌舞伎の団十郎の吉例の睨みが思い浮かびます。スーパーマンが睨むことにより悪霊を封じ込める事ができるわけです。
人の得る情報は8割が視覚によって得られるそうです。それは視覚が触覚や聴覚や嗅覚をコントロールできると言うことで、視覚に適合しない他の感覚は操作される場合もあるようです。視覚にしても網膜から入ったデータはロジックに分割され脳の既存する経験データにより新たに再構成されるようで、見たものがそのまま認識されることは無いようです。脳でみたいと思うものを見ているのであって、真実を見ているかどうかはわからないらしいです。




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 子どもを食い殺した豚が、殺人罪で死刑になる。ブドウの樹を荒らす毛虫が、破門に値すると訴えられる。大麦をむさぼったとして訴えられたネズミに召喚命令が出る。今ならコメディになりそうなこれらの光景が、中世のヨーロッパにおいて実際に見られた。 訴える方も訴えを受けつける方も、真剣だ。動物には弁護士もついた。追放命令が出たら、教会が動物や虫を追い出すことになっている。神聖であるべき世界の秩序を守るのは人間であると信じられていた。もちろん、当の動物や昆虫は、何のことだかわかっていなかったろうけれども。 それから500年以上の時が流れ、ふたたび、動物が主役の裁判が注目されている。米国のクリストファー・ストーン教授が論文で提唱した「自然の権利」がきっかけだ。沖縄のジュゴンやタイマイが原告になって海を守れと裁判所に訴える、オオヒシクイが渡り鳥の越冬地を守れと訴える。奄美自然の権利訴訟ではアマミノクロウサギやルリカケスが原告になる。違うのは、中世ヨーロッパの動物裁判で被告だった動物が、今度は原告になっていること。裁かれるのは、人間だ。 イエルク・ミュラーらによる『ぼくは くまのままで いたかったのに……』という絵本を思い出す。主人公の熊は、冬眠から覚めたある日、巣穴のまわりが開発され、自分が工場の敷地にまぎれこんでいることに気づく。人間は彼が熊であることを認めない。制服を与え、顔を剃らせ、はたらかせる。同じ熊からもそんな姿の仲間はいないと言われ、次第に居場所を失っていく主人公の熊。 動物にとって、被告席にあろうが原告席にあろうが、大きな違いがあるだろうか。彼らはただ、彼らのままでいる。ね、ジュゴンにオオヒシクイにアマミノクロウサギ。ほんとうはぼくたちが、きみたちの裁判所に出頭すべきなのだろうね。

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 ベーコン数あるいはエルデシュ数として知られる概念がある。出演した映画の共演者をたどることで何人目にケビン・ベーコンにいきつくかを表すのがベーコン数で、彼と共演していたら1、彼と共演している人と自分が共演していたら2となる。エルデシュは数学者で、この場合は論文の共著者をたどる。 たいていの役者はベーコン数3までにおさまる。日本の役者で調べてみると、高倉健や吉永小百合、織田裕二も木村拓也もベーコン数3。吉永小百合は『千年の恋』で松田聖子と共演し、松田聖子は『アルマゲドン』でキース・デビッドと共演し、キース・デビッドは『ノボケイン』でベーコンと共演している。もっとも、だからといってベーコンがハリウッドの中心というわけではなく、おおむね誰をとったって、似たような結果になる。 人と人のつながりは「6次の隔たり」としても知られる。1967年に行われた、社会学者ミルグラムによる実験がきっかけ。意図なく選ばれたボストン在住の株式仲買人に、やはりランダムに選ばれた人たちから何ステップでつながるか、というもの。あて先を示した手紙を160人の人に渡す。あて先の仲買人を知らない場合は、知っていそうな人に渡してもらう。結果、42通が仲買人に到達。その平均ステップ数が5.5だった。ぼくたちは誰とでもおよそ6人でつながる。届かなかったおよそ120通の手紙が無視されているが、まあそれはよしとしよう。この結果に刺激されて作られた舞台が大ヒット、『私に近い6人の他人』という映画にもなった。 小さく狭いぼくたちの世界。ネットワーク研究のバラバシらは、細胞内の化学物質のほとんどが3つの化学反応経路によってつながっていること、30億を超えるインターネットのページも、およそ19クリックすればほとんどのページにたどり着けることを報告している。ぼくたちは、そういう、つながりの世界に住んでいる。

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