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ちょっと知的な雑学&トリビア

ドラッグ・デリバリー

2003年7月21日 【コラム
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 子どもが粉末状の薬をのまないものだから、初めてオブラートを購入。なるほどオブラートで包むとはよく言ったもので、おいしそうに嚥下した。第一関門突破。一般的に薬は、このあとさらにいくつもの難関を越える。胃酸に負けず胃を通り抜け、腸壁を通過して血液に入り、肝臓のフィルターをやり過ごしてようやく体の各部へ。
 薬を患部に届ける工夫にはさまざまある。経口であれば、溶ける時間の違うカプセルに包んで投与したり、放出を制御する物質を混ぜたり。注射で直接血液に注入すれば確実だけれど、患者の負担が大きい。皮膚に貼るパッチや体内に埋め込むインプラント剤、点鼻薬や肺から吸入する噴霧タイプなどが、ここ20年ほどで新しく登場した。
 バイオテクノロジーが進んで、これからはたんぱく質の薬も増えてくる。そうなると分子が大きいから、腸の内壁を通り抜けられない。あるいは遺伝子治療では、無毒化したウィルスを遺伝子の運び役に使うのだけれど、突然変異を起こして毒性を獲得する場合もあり、非ウィルス性の遺伝子導入剤が求められている。そんなこんなで、ドラッグ・デリバリー・システムは市場拡大が予測されており、いま注目の分野だとか。
 最終的に理想とされる形のひとつは、マイクロチップを体内に埋め込み、薬物濃度をモニタリングしつつ、適量を適時に直接患部に届けるようなしくみだろう。そうしたチップの開発も進んでいるし、肺からの投与や、電気パルスや超音波を利用して皮膚からの浸透を補助する研究も進んでいる。
 ふと、かつてのテレビドラマ『スタートレック』のワンシーンを思い出す。ドクター・マッコイが患者に利用する注射器のようなもの。針はない。皮膚にあてれば、しゅっという音とともに薬剤が体内に送り込まれる。たったそれだけの小道具に未来を感じた。あの番組は真に、というかリアルに未来的だったと、あらためて思い返したのであった。

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7 comments to...
“ドラッグ・デリバリー”
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小橋昭彦

薬の投与については、「クスリのかたち」がよくまとまっています。ドラッグ・デリバリー・システムについては、「ドラッグデリバリーシステム(DDS)の研究開発動向」「新しい薬物療法として期待されるドラッグデリバリーシステム」「ドラッグデリバリーシステムの最新事情”針なし投与法の進歩”」などをどうぞ。レポート「米国ドラッグ・デリバリーシステム市場の全貌」の章立てを見るだけでも参考になります。


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ふなはし

日本の誇るドラッグデリバリーシステムとしては
DGDS(ドラッグガスデリバリーシステム)ってのが
あります。
薬品を気体化して、皮膚呼吸で摂取させるという手法。
皮膚に張る必要も無く、服に張るだけというもの。
子供には注射や経口薬はつらいので、非常に便利かと。


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小橋昭彦

ふなはしさん、ありがとうございます。とてもおもしろいです。なるほど、服にパッチとは。

ところで、コラムでは触れませんでしたが、たんぱく質に腸壁を通過させるドラッグデリバリーシステムのうち、生体付着性を利用して粘膜にくっつけるアイデアのはじまりが、星薬科大学の教授らの研究までさかのぼれると知って、しみじみしていました。星薬科大学でピンと来て創始者を調べると、星一。星新一氏のお父さんなのですね。『明治・父・アメリカ』などをむさぼるように読んだ少年時代を思い出しました。


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なか

子供に薬を飲ませる一つの方法は、普段から
甘いものを食べさせないことだと思います。
子供の薬は普通は甘いので、
甘いものが薬だけになるなので
喜んで薬を飲んでくれるようになります。
私の子は、漢方薬をオブラート無しでも飲んで
くれるようになりました。


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純ちゃん

スタートレックのDr.マッコイの話で思い出しました。
もう10年くらい前でしょうか、勤務先の病院で職員対象の予防接種を行った際、Dr.マッコイ風に注射器を使わない摂取を行いました。ピストル状の圧力式注射器で薬剤を打ち込む方法です。アルコール消毒の後、ピストルを上腕部に押付け、引き金を引くと叩かれたようなショックがあり、針が刺さったような痕跡だけが残っていました。
注射針を使用しないため、感染の心配はなく、次々に接種できるため時間も取らずに画期的なシステムであるのは確かなのですが、接種された側としては、銃に撃たれたと同じくらいのショックがあり(実際に撃たれたことはありませんが)余りに非人間的だということで、一回限りで中止になりました。
あれからどう変わったのでしょうか。


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アッシュ

>純ちゃんさん
>ピストル状の圧力式注射器で薬剤を打ち込む方法です。アルコール消毒の後、ピストルを上腕部に押付け、引き金を引くと叩かれたようなショックがあり、針が刺さったような痕跡だけが残っていました。

小学生の頃(20年ほど前でしょうか)、「鉄砲注射」と呼ばれていた注射方法がこんな感じでした。

C型肝炎の感染経路の原因なのではないかとテレビで報道もされたことがあったり、神経繊維を損傷するという報告もなされたりして、現在は鉄砲注射は無くなって居るそうです。


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rnakaji

小橋さん、ふなはしさん、そういえば子供の胸に塗って、体温で気化させた薬剤をのど粘膜に吸収させる咳止めって有りましたね。最近コマーシャルを見ないけど今でもあるのですかね。




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 たとえばつる女房。あるいは猿婿入り。昔話には動物などとの婚姻を描いた話があり、異類婚姻譚と呼ばれている。動物が人間に化ける話が多いのは日本の昔話の特徴で、西洋にはあまり見られないという。生物学の中村禎里氏によると、『グリム童話集』でも動物が人間に変身する例はほんの数例。しかも一例を残してそれらは、魔女などによる魔法の力で動物の姿にされていた人間がもとの姿に復するという設定。カエルと結婚したが魔法が解けてみると立派な王子だったの類だ。 口承文芸研究家の小澤俊夫氏もまた、日本の昔話におけるこの大きな特徴に注目したあと、それらの話が必ず別離で終わっていることを指摘している。たとえばつる女房では助けてもらったお礼に人間の姿になって嫁になった鶴が、もとの姿で機織をしているところをのぞかれたことで、夫のもとを去っていく。猿婿入りでは、父親を助けてもらったお礼に猿の嫁に行くことになった娘が、猿を殺して父のもとに帰ってくる。 そこには、日本の農民の事情があったろうと小澤氏は指摘する。山からの動物と身近に接しつつ、それらに農作物を奪われないように苦心してきた人々。だから動物との対決が主題になりえた。対して欧州の昔話は、動物はコマ回しにすぎず、人と人の関係が主題になる。欧州の研究者は、動物との別離で終わる日本の昔話を、中途半端な幕切れと感じるという。欧州の物語は別離が発端で、分かれた人を探す旅が物語になる。 このところ、わが家の蔵の脇にアナグマが大きな穴を掘り、縁の下にもぐりこんでいる。裏の畑ではタヌキの足跡が残され、山には鹿が木の皮をかじったあと。どうすれば被害を防げるか、そこには人間が優位といった思いはなく、互いの知恵が勝負。動物と人間が裏山で接していた時代のことを、しばしば思い出している。

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