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ちょっと知的な雑学&トリビア

信念という持ち物

2003年7月14日 【コラム
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 心理学者のロバート・エイブルソンに「信念とは所有物のようなもの」という言葉がある。なるほど、ぼくたちは信念を「持ち」、「得たり」「抱いたり」、ときにはそれを「手放し」も「失い」もする。同じ心理学者のT・ギロビッチは、エイブルソンの言葉を紹介しつつ、人が自分にとって役立つ物を持つように、信念も有益だから持っていると指摘している。
 この信念という所有物は、ときにガラス細工のように壊れやすかったり、自分が生きていくこととほとんど重なるほど不可欠の持ち物だったりする。たとえばロベルト・ベニーニによる『ライフ・イズ・ビューティフル』という映画。強制収容所に収容されたユダヤ系イタリア人の父は、子どもにこれはゲームだと言い聞かせる。ポイントを貯めればゲームオーバーになってうちに帰れるよと。父が子に与えた、日々を生きるための信念。
 新版の出たヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を読んで、この映画で描かれている「笑い」が、必ずしも映画的誇張でないことを知る。強制収容所での体験を、心理学者の視点で回想した記録だ。どんな状況にも人は慣れることができる、と彼は書く。お前がもっともガス室行きに近いと言われて、彼は微笑む。異常な状況に似合わないと思える微笑。しかしそれは、精神を病んだためではなく、自分の心を守るために必要だったのだ。
 心を、ひとつの部屋のように考える。そこには、壁にかけた絵やテーブルや椅子やカーテンのように、さまざまな信念がコーディネートされて揃っている。人はみな自分の部屋を持っている。誰も、その部屋に土足で入ってテーブルを奪ったり、花瓶を壊したりする権利はない。でも、互いの部屋を訪れることで、押入れの奥にしまいこんで忘れていた額を取り出してかけてみたり、新しいテーブルクロスを編んでみたり、自分の部屋をより磨いていくことはできる。

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4 comments to...
“信念という持ち物”
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小橋昭彦

T・ギロビッチの著作は『人間この信じやすきもの』が代表作。信念についての考察も含まれています。『ライフ・イズ・ビューティフル』はDVDでどうぞ。『夜と霧』は分量も多くなく読みやすいです。淡々とかかれた筆致が印象的。


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okubo.kazuhiko

上記、解説文を当方のメール内で使用して宜しい
ですか?勿論、サービスメールですので無料です。
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小橋昭彦

okubo.kazuhikoさん、ありがとうございます。著作権法にいう引用の範囲内であれば、もちろん大歓迎です。引用元としては、このページのURLをご利用ください。


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ハマ

心の中のたたずまいのありようを示す言葉に出会い、さわやかな風を感じました。




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Your Comment:

 なんば歩き。右足を出すと右手を出す、左のときは左という歩き方と一般に解説される。江戸時代まで日本人はそんな歩き方をしていたというと、たいていの人は信じられない。確かに、意識して右手右足を同時に出そうとするとぎこちない。いっそ手は腰にあててみる。刀を支えている気持ち。その腰を、尻をおされた感じですっと前に運ぶ。すると、片方の足が前に出て身体を支える、その頃にはもう一方の足は前に動き始めている。手は振らないつもりでいるほうがいい。 歩き始めたばかりのわが子を見ていると、そもそもこうした歩き方をしていることに気付く。後ろ足で蹴って進むのではなく、倒れる力を利用して進んでいる。剣道や古武術がこの動きであることも知られている。しばしば見かける宅配便のマークにある飛脚もこの走り方。昔の人はこの動作を日常にしていたから、体をねじらず着物も着崩れなかったと言われると、そんなものかとも思う。 小田伸午博士の「二軸運動理論」を知って、なんば歩きを新しい角度から見ることとなった。身体に中心線を持ってそれを芯に動く動きに対して、両足の股関節を通る二つの軸を持つ動きを言う。現代の歩き方は中心軸歩行だけれど、なんば歩きは右軸から左軸へと移動させつつ歩く。一直線の上を歩くのではなく、二本の平行線をたどると考えると良いかもしれない。 これを野球の投手に適用した見方が新鮮だった。中心軸投法は腕の振りが胸からとなる一方、二軸だと右投手なら左股関節から右手の先までを利用して投げることになり、いわば腕が二倍長いイメージになる。サッカー選手でも二軸の動きを基本にしていると、片方の膝を抜くだけで方向を変えられるので動きがすばやい。どこかに中心があると考えるのではなく、二軸あってそれが移ろっている。それは何も運動に限ったことではなく、なにごとも、そうしてゆったりととらえた方がよさそうな、そんな気もした。

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 たとえばつる女房。あるいは猿婿入り。昔話には動物などとの婚姻を描いた話があり、異類婚姻譚と呼ばれている。動物が人間に化ける話が多いのは日本の昔話の特徴で、西洋にはあまり見られないという。生物学の中村禎里氏によると、『グリム童話集』でも動物が人間に変身する例はほんの数例。しかも一例を残してそれらは、魔女などによる魔法の力で動物の姿にされていた人間がもとの姿に復するという設定。カエルと結婚したが魔法が解けてみると立派な王子だったの類だ。 口承文芸研究家の小澤俊夫氏もまた、日本の昔話におけるこの大きな特徴に注目したあと、それらの話が必ず別離で終わっていることを指摘している。たとえばつる女房では助けてもらったお礼に人間の姿になって嫁になった鶴が、もとの姿で機織をしているところをのぞかれたことで、夫のもとを去っていく。猿婿入りでは、父親を助けてもらったお礼に猿の嫁に行くことになった娘が、猿を殺して父のもとに帰ってくる。 そこには、日本の農民の事情があったろうと小澤氏は指摘する。山からの動物と身近に接しつつ、それらに農作物を奪われないように苦心してきた人々。だから動物との対決が主題になりえた。対して欧州の昔話は、動物はコマ回しにすぎず、人と人の関係が主題になる。欧州の研究者は、動物との別離で終わる日本の昔話を、中途半端な幕切れと感じるという。欧州の物語は別離が発端で、分かれた人を探す旅が物語になる。 このところ、わが家の蔵の脇にアナグマが大きな穴を掘り、縁の下にもぐりこんでいる。裏の畑ではタヌキの足跡が残され、山には鹿が木の皮をかじったあと。どうすれば被害を防げるか、そこには人間が優位といった思いはなく、互いの知恵が勝負。動物と人間が裏山で接していた時代のことを、しばしば思い出している。

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