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ちょっと知的な雑学&トリビア

ねむり衣

2003年6月02日 【コラム
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 ねむり衣(ぎ)とはうまく名づけたものだ。睡眠文化研究所による命名。パジャマというと特定の服装を指すし、ねまきは和風。最近ではTシャツなどを着る人も増え、さて、そうしたものを総称する適切な呼称がない。それで付けられた造語である。
 ふだんあたりまえのように寝る前にねむり衣をまとい、朝には昼間の服に着替えて朝食を食べる、あらためて人はいつからそんなことをするようになったかと問われると、そういえばいつからだと不思議に思う。
 睡眠文化研究所によれば、ねむり衣にはいくつかの類型があるという。多いのは昼衣型。昼間と同じ服装で寝るものだ。日本でも着所寝という言葉があるように、昼間と同じ服で寝ていた時代があった。ついで、昼間着ている服から上着だけ脱いで寝る下着型がある。これは上着と下着が区別されていないといけないから、少し発展形。裸型というのもある。エロティックな意図ではない。フランスでは今も多いというが、中世ヨーロッパでは裸型が主流だった。下水施設が無いなど街は不潔だったとされるから、昼間の服のままでは臭かったということかもしれない。身体は裸でも、かつらを脱いだ頭には布を巻いているのが興味深い。いわゆるナイトキャップ。
 日本はねむり衣型。江戸時代に浴衣が主流になり、戦後はパジャマが多くなる。発祥はインド。ウルドゥー語でパは足、ジャマは衣服。足の裾を絞ったゆったりした服だ。これがヨーロッパにもたらされてねむり衣となり、日本に伝わる。阪神淡路大震災以降、日本ではスポーティウェアで眠る人が増えている。そのままコンビニにも出かけてしまう、こうなると果たしてそれはねむり衣か。
 このところ、寝ないことを誇るような風潮があるのはちょっと寂しい。ふっくらした布団に入り、眠りを迎える前の豪華な時間。昼間の活動を延長するあまり、眠りまでコンビニエントになってはもったいない。

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3 comments to...
“ねむり衣”
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小橋昭彦

睡眠文化研究所による調査は「ねむり衣調査結果」をご参照ください。研究成果は、『ねむり衣の文化誌』として書籍になっています。


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原始人

安月給で夜遅くまで働く毎日。
こんなに文明の発達した時代なのに、睡眠時間さえ
まともにとれないとは・・・。
情報化社会は人間に睡眠時間を与えてくれるのか?
それとも奪うのか?
・・・やっぱり後者になるのかな(T_T)


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部屋着

意外と他人の睡眠に関する習性は知っていそうで、知らないことなんだなと思いました。

いつだって自分が基準なので、ねむり衣に観点を置いて考えたことなどほとんどありませんでした。いつもながら、いい視点をお持ちですね(^^)どうやって培われたのか教えていただきたいです。

ねむり衣についてですが、私の場合は部屋着と一緒です。
とはいっても、外出できるような代物では到底無く、(例えコンビニでも無理です。)テロテロになったコットン100%のキャミと短パンです。

帰宅するとすぐに外出着から部屋着に着替えて、部屋着のまま布団にはいります。夏場は、太陽の下でふくふくになるまで干した布団で寝るのが楽しみなんですよね♪

ちょっとした疑問ですが、なんで寝る時用の服と外出用の服を分けるようになったのでしょうね?
(原始人とか同じ服装で寝ていたっぽいのに…)

よくないとは知りながら、今宵も寝酒を一杯、眠りの世界に飛んでいくことでしょう。よりよく生きるためには、ちゃんと寝ないとね♪質の良い人生は、質の良い眠りから(^^)




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 週末は地元の若者団体主催のレクリエーション。田舎では地縁活動が今も盛んで、消防団や子ども会はもちろん、鹿などが里に降りるのを防ぐ金網を張ったりといった奉仕作業もある。多い人になると毎週のように地域の活動が入る。もっとも高齢化が進む中で、こうした地縁組織がいつまでもつのかという悩みも深い。 社会心理学的な興味から山岸俊男博士の『安心社会から信頼社会へ』を手にとる。なかで、統計数理研究所による国民性の日米比較調査の結果が紹介されていた。たいていの人は信頼できるかという問いに、信頼できると答えたのは、アメリカ人が47%に対して、日本人は26%。日本人の方が他人を信頼していないという結果。山岸氏は、日本人は他者を信頼しているのではなく、安心社会に生きているのだと指摘している。たとえば人を裏切れば村八分になるなど、いわば世間が安心を支えていたわけで、人を信頼していたのではないと。一方アメリカでは、個人が個人を信頼するところから社会を、国を築いてきた。日本で安心社会が崩れつつある今は、むしろ信頼社会を築く好機だという指摘。 もっとも、それには多大な努力がいることだろう。並行して読んでいた心理学者・岸田秀氏の『幻想の未来』にこんな指摘があった。アメリカ人が他者を信頼できるのは、互いに神の前に忠誠を誓っているからだと。そうした絶対なる存在がなく、人間関係を互いの基盤としてきた日本で、何によって他者への信頼を築けるだろう。 両氏の主張については深入りしない。安心と信頼。そういえばこれまで、ふたつを明確に分けてとらえていなかった。ぼく自身は、地縁に根ざした活動をたいせつに思いつつ、志でつながれた非営利でのまちおこし活動を楽しんでもいる。おそらくは単純に何かから何かへというのではなく、これらの結びつくところに新しい価値観を生まなくてはいけないのだろうと、そんな決意を新たにした。

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