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生命の道

2003年5月26日 【コラム
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 100キロの道の始点に重さ5トンのゾウを立たせる。終点には0.000001グラムのホソバネヤドリコバチ。その間に地上の動物種を大きさの順に並べる。「生命の道」と名づけたこの印象的なたとえに、クリス・レイヴァーズの『ゾウの耳はなぜ大きい?』で出会った。最大の陸生動物ゾウから、二番目に大きなシロサイに会うまでの50キロメートル、道には何もいない。60キロのところでカバ、75キロでクロサイとキリン、90キロでラクダ、それからウマが登場。道程の大半は、こうして会う動物もまばら。大混雑するのは最後の60メートルで、何千種というげっ歯類、鳥類、ヘビ、カエル、コウモリなどなどがひしめく。
 レイヴァーズは生命の道を「代謝エンジン」という視点で歩いていく。温血動物にヘビのように長いものがいないのは、球形に近くして体重に対する表面積を少なくするためと説明する。表面積が大きいと、体内で発生させた代謝熱を逃がしてしまう。逆に熱帯に住むゾウは、毛をなくしたり耳を大きくして表面積を広げ、熱を逃がす工夫をしている。
 代謝熱を運ぶ血液は心臓が送り出す。ワニは平べったいから35から75ミリメートル水銀柱の力で全身に送れるのに対し、ヒトの場合100から150mmHgないと頭に血が回らない。キリンはなおさらで、300mmHgという圧力が必要になる。ただこれだけの力で肺に血を送ると肺表面の毛細血管が破裂する。ヒトの場合、心臓の右側の部屋から低い圧力で肺に送り、肺で酸素と二酸化炭素を交換した後、心臓の左側に戻る。左側は右の部屋より厚い壁でできていて、高い圧力で全身に送れる。
 ちなみに、生命の道においてヒトが立つのは、残り1キロの標識が見えかける頃。動物園でゾウやカバを見て親近感を覚えているぼくたちだけれど、生命の道においては、彼らからはるか隔たり、ネズミやカエルにずっと近い。

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5 comments to...
“生命の道”
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小橋昭彦

ご興味を持たれた方は、『ゾウの耳はなぜ大きい?』をどうぞ。


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いしだ たかし

 今回の話しは少しわかりにくかったです。

 動物を並べるというときに最初は大きいほうから小さいほうへ種類順に並べているかと思ったのですが、最初の数キロはまばらだということからすると大きさの対数スケールかなにかで並べてあるということですね?
 大きい動物が少数派であるという認識はありましたが予想以上に偏っているようですね。

 ところで、心臓の左右の圧力仕様が異なるというのは初耳です。少し疑問に思うのは、これは機能の必要から来る結果としてそうなっていったものなのか(つまり筋肉トレーニングで筋肉が付いたのか)、それとも最初から機能に対して遺伝的に設計されてそうなるようになっているのでしょうか?


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小橋昭彦

すみません、重量で目盛りをつけて並べていく、という部分の説明が不足でしたね。

心臓の働きについては、進化で考えた方がいいかな。つまり、必要だからトレーニングしてといった考え方ではなく、かといってある機能が必要だから遺伝的に設計した、といった考え方でもなく、ただそのようになったものが生き残ってきた結果だと。そういう意味では、遺伝的な考え方ではありますけれども。


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トゥアラー

「生命の道」の話には、少し疑問があります。

重量を長さのスケールで表現するのでは、実際の大きさの感覚とは、かけ離れてしまいます。
重量は3次元で長さは1次元ですので、動物の体を全て球体とし、その球体の直径の数値で比較すると、実感出来るような気がします。必要以上に偏っていることを強調しているような気がします。

例えば、「地球の直径を1mとすると大気の厚さは1mm程度である」といえば、その薄さが実感できます。
私はこの本を読んでいませんので判りませんが、「代謝エンジン」という視点を説明するのに都合が良いから、あえてこの様な比較をしたのでしょうか?


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小橋昭彦

トゥアラーさん、ありがとうございます。

重量は3次元で長さは1次元という指摘、確かにその通りですね。この本の中でも、表面積との関係としてですが、次元の違いが大きな差を生むという指摘がありました。

生命の道のたとえは、代謝エンジンの説明のためというより、大きな動物がいない、ということをわかりやすく表現する目的のためと思います。確かに誇張しすぎるきらいはありますけれども。




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Your Comment:

 ヒトはゾウと似ている。ゾウの鼻が長い理由を調べていて、国立科学博物館の解説でそんな表現に出会った。ゾウを後ろから見て、ジーンズを履いたお相撲さんを連想したこともあったっけ。むべなるかな、移動に直接関係しない腕まで支えるヒトの腰から下の構造は、相対的に大型動物と同じなのだとか。 何かを食べるという行為においてもそうだ。ゾウは鼻で地面から食物をとりあげる。それを口で砕き、飲み込んでお腹で消化する。ヒトもまた手で食べ物を口まで運び、顔で砕き、お腹で消化する。子どもがゾウを真似して手を顔の前でぶらぶらさせるのは、正鵠を射たジェスチャーであったわけだ。 これをたとえばウマと比べればことはより明確になる。ウマは地面に顔が届くから、顔で食物をとり、その顔で砕き、それからお腹で消化する。食物をとるところと砕くところが近接しており、ヒトやゾウとは違う。ゾウは巨大化して頭が重くなり、首を長くしては支えきれなかった。ウマと同じようには食物をとり上げられなかったのだ。 同じ大型動物でも、首長竜の場合は事情が違う。あれは頭を小さくすることで重量を減らし、首を長くした。頭を小さくするために、歯やあごといった食物を砕く機能はお腹に持って、顔はただ食物をとるためだけとした。砕く機能と消化機能が近接しているから、ヒトやゾウとは違っている。 ゾウの鼻が長いのは、水生の頃にシュノーケルとして伸びた、という説もある。しかし、あの鼻が実際には上唇も一緒になっていることを思うと、食物を地面からとりあげるためにという説がもっともらしい。ゾウの進化史は4000万年以上昔にたどれる。チャドで発見された最古の人類ともみられる700万年前の化石も、ゾウの化石と一緒に見つかり、年代推定の参考にされた。人類がようやく地上に現れたその頃、ゾウはすでに長い歴史を積み重ね、鼻も長くなっていたのである。

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 週末は地元の若者団体主催のレクリエーション。田舎では地縁活動が今も盛んで、消防団や子ども会はもちろん、鹿などが里に降りるのを防ぐ金網を張ったりといった奉仕作業もある。多い人になると毎週のように地域の活動が入る。もっとも高齢化が進む中で、こうした地縁組織がいつまでもつのかという悩みも深い。 社会心理学的な興味から山岸俊男博士の『安心社会から信頼社会へ』を手にとる。なかで、統計数理研究所による国民性の日米比較調査の結果が紹介されていた。たいていの人は信頼できるかという問いに、信頼できると答えたのは、アメリカ人が47%に対して、日本人は26%。日本人の方が他人を信頼していないという結果。山岸氏は、日本人は他者を信頼しているのではなく、安心社会に生きているのだと指摘している。たとえば人を裏切れば村八分になるなど、いわば世間が安心を支えていたわけで、人を信頼していたのではないと。一方アメリカでは、個人が個人を信頼するところから社会を、国を築いてきた。日本で安心社会が崩れつつある今は、むしろ信頼社会を築く好機だという指摘。 もっとも、それには多大な努力がいることだろう。並行して読んでいた心理学者・岸田秀氏の『幻想の未来』にこんな指摘があった。アメリカ人が他者を信頼できるのは、互いに神の前に忠誠を誓っているからだと。そうした絶対なる存在がなく、人間関係を互いの基盤としてきた日本で、何によって他者への信頼を築けるだろう。 両氏の主張については深入りしない。安心と信頼。そういえばこれまで、ふたつを明確に分けてとらえていなかった。ぼく自身は、地縁に根ざした活動をたいせつに思いつつ、志でつながれた非営利でのまちおこし活動を楽しんでもいる。おそらくは単純に何かから何かへというのではなく、これらの結びつくところに新しい価値観を生まなくてはいけないのだろうと、そんな決意を新たにした。

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