ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

色を見る

2003年2月20日 【コラム
Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

 水中では視界がききにくい。あれは極度の遠視状態になっているからだと、視覚生理学の村上元彦教授の著書で知った。ヒトはものを見るとき、光を屈折させて網膜に焦点をあわせる。水晶体がレンズの働きをしていると説明されるけれど、じつはヒトの眼でおこなわれる光の屈折の、ほぼ3分の2は空気と角膜との境界面で起こる。水と角膜では屈折率がほぼ同じなため、水中ではこの屈折が起こらない。そこでゴーグルをかけて、水と角膜の間に空気の層を作る必要がでてくるのだ。
 村上教授の書籍を手にしたのは、夢の色について調べていて、ふと実際にこの世界がフルカラーで見える仕組みはどうだったか気にかかったからだった。答えは錐体という視細胞にあって、これが三原色を感じてフルカラーにする。もっとも、人間にとって色成分はそれほど細かいところまでは必要なく、かなり大雑把。その点は、視覚のもうひとつの要素である輝度の場合が、星明りから真夏の海岸まで100万倍以上もの違いに対応するのとは対照的だ。
 村上教授は、著書で赤・緑の色覚異常であることを明かしている。異常という表現にためらいもあるが、教授の表記に従う。そのことを自己紹介すると、赤い紙を見せて「何色に見えますか」と尋ねる人がいるという。そんなの英語ならredだし、ぼくたちは緑色でも信号を「青」という。ただ色を尋ねることはむなしい。
 色覚検査には、石原式と呼ばれる検査表がよく使われる。日常ではありえない、鋭敏すぎる検査。列に並んで待つとき、淡い色並びで描かれた文字を答えられるか、ぼくでさえどきどきしたものだった。読めない人の心の傷はどうであったか。比率からいえば、色覚異常者はクラスに2、3人はいる計算になる。あるチョーク会社は、村上教授の指摘ではじめて黒板に赤いチョークで書いた文字が見えにくいことを知り、朱色のチョークを開発した。そう、ぼくたちはむしろ、自らの心の盲点に自覚的であらねばならない。

Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

7 comments to...
“色を見る”
Avatar
小橋昭彦

村上教授の著書『どうしてものが見えるのか』は残念ながら絶版のようです。「目にやさしいチョーク」をご参照ください。色彩については「ABC of Color」などご参考に。


Avatar
鶴 喜久

いつも軽妙な話題、有難うございます。

自動車の運転免許試験で法学部の教授が、「法規」は専門だから、勉強する事は無いと、受けました。
○×の問題で、「消防自動車の車体の塗色は赤色である」と出たので、当然常識で○にしたところ、見事落ちました。
消防車は朱色なのです。
「緊急自動車の車体の塗色は、消防自動車にあっては朱色とし、その他の緊急自動車にあっては白色とする」と運輸省令(当時)で決められているからなのです。

「色の道」を極めるのは、難しいですね。


Avatar
加島潤一

私自身色弱です。
医学の世界でも「第2色覚異常第3度」などと診断名がついて、色覚異常という表現が使われています。大多数の人と、色が違って(異なって)見えることから、異常という表現が使われているのだと思いますが、他に表現方法がないのかもしれません。
色覚異常の人は日本に300万人ほどいるといわれています。どうして識別されなければならないか。小学校、大学入試、就職試験の三回、検査を受けましたが、合理的な説明を受けたことは一度もありません。
検査表はもともと旧日本軍の徴兵検査用に開発されたものが原型で、非常に短時間で色覚異常を発見できるので、改良されつつ現在も使われています。
来年度から、小学校ではこの検査がなくなります。不都合はないのでしょうか。
色が違って見えるということは、色のついた絵を描くと判ります。私が感じた色を私が選択した絵の具で表現すると、異常でない人がみるとやはり異常に見えるのです。ただし、赤が緑に見えるなどという単純な話ではありません。大変表現しにくい話ですが、微妙な色感が異常なのです。物の赤の波長は、絵の具の赤の波長と同じなので、まず間違えることはありません。原色ではない色の波長がこんがらがってしまう、という感じでしょうか。
小学校で検査をしないということは、例えば図工の時間に発見されかねないということを意味します。本人の自覚の有無は別として、予め識別されている場合と、されていない場合では、対処の仕方が大きく変わるはずです。
中学校の美術の時間に、先生が私の絵をメチャクチャな色(異常でない人の色)に変えてしまったことを思い出します。私は自覚していたので平気でしたが、もし無自覚のまま、こういう経験をしたら大変なことになるでしょう。
ウェブサイトはカラーです。ときどき、とても見えにくいサイトにぶつかります。結構なストレスです。たかだか300万人の都合ですが、少しは配慮してもらいたいものです。色覚異常に配慮した色使いにするためのパレットも開発されているそうです。
高速道路でも様々な色使いで情報が表示されていますが、本当に識別できない人もいることを忘れないでもらいたいものです。


Avatar
松本秀人

20数年前、内定後の身体検査で、“色覚異常”とされて内定を取り消された過去があります。
これについては何冊か本が出てますが、『つくられた障害「色盲」』(高柳泰世、朝日新聞社、1996)が特に有名ですよね。


Avatar
MAX

子供のころ色覚検査が何を調べるものなのか全く分かっていなかった私は、
検査のときに誰かを傷つけるようなことを言っていたかもしれない。

自分も「ちょっとした身体的特徴」を持っていることが後に分かって、
内定取り消しの恐怖におびえた。
もしあの時、あなたは障害があるから、、、と今の会社に断られていれば、
私は世間と自分の障害を、恨んでいたかもしれない。

よく言われることだけど、誰もが障害を持っている。
それが目に見えたり、見えなかったり、計測できたり、できなかったりするだけ。

みんなが見やすい朱色のチョークを使えば、みんながうれしい。
バリアフリーって、みんながハッピーになるための方法の一つだと思う。


Avatar
なお

私の場合は色覚過敏と言うのか、赤やシアンの色を見ていると吐気がします。輝度が高くなければいいのですが、黒地に白文字といったものでもストレスを感じます。

>加島さん
色覚異常については、どの色がどのように見えるのか、また、環境など千差万別で、現実には配慮しにくい場合もあります。
ウエブサイトで見難い色に当たった場合は、自分の見えやすい色を書いたユーザースタイルシートを活用するのもいいのではないでしょうか。
もちろん制作者の方がしっかり対応してくだされば良い話なのですが・・・。


Avatar
まこと

小学校入学時の色覚検査で「なんでわからないんだ」と、何度も何度も検査されたことがいまだに忘れられません。
そのときは屈辱でわんわん泣きました。
大学進学時に希望していた理系は無理だと担任に言われて、親に理不尽な怒りをぶつけたこともありました。
当時の心の痛みを久しぶりに思い出しました。




required



required - won't be displayed


Your Comment:

 米国の哲学研究家エリック・シュワイツァベル博士が、昔は夢も白黒だったという論文を発表している。1951年の調査ではカラーで夢を見た人は3人に1人もいなかったのに、現代では大半の人がカラーで見た経験を持っている。テレビや映画のように夢見の技術が発達したわけではもちろんない。なぜ変化したのか。 テレビや映画の影響だ、というのが博士の指摘。白黒かカラーかという問い自体、映像技術が開発されたからこそ成り立つ。それ以前ならスケッチか彩色かという質問がありえたかもしれないが、夢と絵は違いすぎる。白黒映画、白黒テレビが登場して、人は夢を白黒で見るようになった。 いや、白黒で思い出すようになった、と言ったほうがいいかもしれない。見る夢は同じでも、思い出すときに、日常見ている映像の影響を受けて白黒になったりカラーになったりする。白黒のはずのテレビ番組を「真っ赤なブーツを履いていたね」なんて記憶していることもある。夢を思い出すという解釈行為の中に、色を決める過程があるとすればどうだろう。香りや触覚を届けるテレビが登場すれば、夢で手触り感などを覚えることが増えるのではないか、とも博士は予想している。 かつて人は、夢は会いたい人に会える場所であり、生き方を教えるお告げと考えていた。時代がくだって合理主義が芽生え、夢と現実は分離される。もっともそのために「夢みたいなことばかり言って」なんてぎすぎすした表現が融通するようにもなった。寝て見る夢が幻想になり、将来の夢までリアリティを失ったか。これはちょっとわかりにくい表現かもしれないけれど、夢そのものを信じるのではなく、夢を解釈する自分、夢に向かう自分を信じる。そんなつきあいかたを、ぼくは心がけている。夢に色をつけ、リアリティを与えるのは、この現実を生きるぼくたちのいとなみなのだ。

前の記事

 人間の眼が、明暗に比べて色合いにおおざっぱなのは、それぞれを担当する視細胞の違いによる。色を見分ける錐体細胞は網膜上に650万個、輝度を担う桿体細胞は1億2000万個。数だけでもこれだけ違ううえに、錐体細胞は明るいときを中心に働くようにできている。 配置にも違いがあって、錐体細胞は網膜の中心部に集中しているのに対して、桿体細胞は周辺部にも手厚い。考えてみれば、敵にしろ獲物にしろ、見分けるために必要なのは迫りくる陰といった情報なわけで、色はその次でいい。野生の名残といえるだろうか。 敵や獲物といえば、たとえ視野の周辺でも、動いていると気になるのも、これに関係がある。動くものは敵あるいは獲物の可能性があるわけで、だからこそ敏感。考えごとをしているときに目の端でちらちら動くものがあって気が散る、あれは知的活動と野生がたたかっているのか、なんて考えると楽しい。 夜によく見えないのが鳥目。確かめると、フクロウのような夜行性の鳥は別にして、昼行性の鳥には錐体細胞しか持たない種が多い。暗がりに弱いのも道理。それではと魚を調べる。こちらはどちらの細胞も持っている。腹が白い理由も明暗で説明されていて納得。太陽がさして腹側が暗がりになったとき、その反対の側である背が影のように黒ければ、全体が平板に見え敵に目立たない。カウンター・シェーディングといわれる方法。明暗を利用して身を守っているわけだ。 ここで再びヒトに戻る。ヨーロッパの人々の眼が青いのは虹彩という部分にメラニン色素が少ないため。日本人に比べて眼そのもののサングラス効果がなく、まぶしさに弱い。ひるがえって日本人は、まぶしさに強い眼ゆえか、夜に明るさを求め、色合いにこだわる。『陰翳礼讃』は谷崎潤一郎、漱石にも『明暗』と題した未完成作品があった。いまのぼくたちはどうだろう。心のヒダってのは、明暗でつかむもののような気がするけれど。

次の記事