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バベル後の世界で

2002年10月31日 【コラム
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 カーネギーメロン大学のホルト助教授によると、世界中の言語を集計すると、少なくとも558の子音と260の母音、51の二重母音があるのだという。半年を過ぎた頃の乳児は、これらすべての音素を区別できる。その後、第一言語にあわせて分類しなおされるのだ。
 とすればわが家の次男坊はいま、家族の誰より音素の聞き分けができることになる。「r」と「l」の区別がないなど、日本語の音素は20あまりしかないから、これからかなりおおまかになるわけだ。これが英語だと52、世界でもっとも多いのはアフリカのカラハリ砂漠地方の言語が持つ141種類だとか。
 ボストン大学のギュンター博士がコンピューター上でニューロンモデルを利用して学習実験したところ、英語と違って日本語では「r」と「l」を特徴づける周波数に敏感なニューロン数が少なくなったという。音素にあわせて脳の構造も違うということだろう。
 とはいえ、それほど心配することはない。「r」と「l」が聞き分けられない日本人でも、英語圏の人と同じく、「ar」のあとは「ga」と聞きやすく「al」のあとは「da」と聞きやすい。音素がすべてではなく、文脈も含め、幅広く言葉を聞いているわけだ。
 これは京都大学の正高信男教授の文章で知ったのだが、小学校低学年で日本から米国に転校した子どもは、移って2、3日は現地の同級生と平然とおしゃべりをするという。それからやっと、相手が自分と違う言語をしゃべっていることに気づく。
 言葉なんて、きっとそんなものなのだ。非言語コミュニケーションの権威、米国の心理学者アルベルト・マーレビアンは、コミュニケーションにおいて伝わる情報のうち、言語そのものが果たす役割は7%にすぎないと分析している。表情や声の調子などによるところがおおきいのだ。
 文章を書く身として、この事実はおそろしい。気持ちの半分でも伝えたいと、いつも何度も何度も文章に手を入れる。それでもやはり心は伝わらず、ときに意図せざることで人を傷つけもするのだ。

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One comment to...
“バベル後の世界で”
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小橋昭彦

Lori Holt氏の研究については、「Speech Perception and Learning Laboratory」をどうぞ。ニューロンの発達については、「Frank H. Guenther」教授の研究です。日本語については、「音素の最前線」が参考になります。ノンバーバル・コミュニケーションについては「Albert Mehrabian」が権威。日本語では「表情と声」あたりがわかりやすいでしょうか。ここでは「メラビアン」と表記していますけれど。




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 龍安寺の石庭が人の心をひきつける秘密は「木」にあるという研究発表を、興味深く読む。石庭を見るとき、人は脳裏に石の間を縫うようにして伸びる木の枝を思い描いているのだという。左右対称に伸びた枝は、もっともよい鑑賞位置とされている箇所で一本の幹になる。 研究チームの一員、京都大学の江島義道教授によると、落ち着く空間には5つの法則があるという。「対称性」「距離感」「動き」「バランス」「子ども時代の慣れ」だ。こたつに入ると落ち着くのは、まさにこれかなと連想する。部屋の中央に置かれるから対称性を実感するし、立ったときより天井や壁との距離感が出る。寒い日常から座ってぬくもるわけだから生活のバランスがとれるし、子ども時代の郷愁もある。動きはないけれど、たいていは別の辺に誰かが入っていて、みかんを食べたり縫い物をしたりして、動いている。 フィボナッチ数列というのがある。1、1、2、3、5、8、13、21、34と続く。5と8を足して13というように、隣り合う数字を足して次にくる数字を作る。数学の時間に松ぼっくりのかさを数えたりしただろうか。右回りに8個ずつ、左回りに5個ずつのらせん状に組み合わさっている。花の花弁の数、ひまわりの種のつき方、巻貝のまき方など、フィボナッチ数列は自然界にしばしば見られる。 さて、フィボナッチ数列といえば黄金分割。数列の隣り合う数字を割り算する。13を8で割ると1.625、21を13で割ると1.615。どこをとっても似たような数字になる。すなわちこれ、黄金比。比率が1対1.618になっている長方形はもっとも調和がとれているとされ、ミロのヴィーナスをはじめ芸術品にも見られると言われる。黄金分割は、自然の中にフィボナッチ数列として隠れているともいえる。 石庭に木を幻視し、美術品に自然を見る。それらが癒しを与えてくれるとするならば、きっとぼくたちの根っこがどこにあるのかを教えてくれているのだろう。

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 文章は、手を入れれば1割か2割は短くなる。ほとんどの接続詞は削除可能だし、同じことを繰り返していたり不要な説明だったりする箇所も必ずある。オッカムがざりっざりっと削ってくれるわけだ。 オッカムというのは14世紀のスコラ哲学者で、「不必要に実体の数を増やしてはならない」という言葉で知られている。これがオッカムのかみそり。やさしい文なのに頭に入ってこないのは、「実体」という訳語がわからないからか。科学方面でよく使われる表現になおせば、「もっとも単純な説明が最良であることが多い」。ふたつの理論が同じことを言っているときには、単純な理論の方がよいというわけだ。 伝えられるところによれば、教皇に異を唱えたオッカムは、バイエルンの皇帝に庇護を求めたとき、「陛下が剣で私を守ってくださるなら、私はペンで陛下をお守りします」と述べたという。その決意ゆえか、彼はいまでも、実在するのは個物だけで普遍は名称にのみあるとする『唯名論』の代表的論者として伝わる。ちなみに、彼の言葉から連想する「ペンは剣より強し」ということわざは、19世紀イギリスの作家リットンの戯曲『リシュリュー』によって知られるようになったもの。 オッカムの時代からすでに700年近く経つ。いまでも彼のかみそりは鋭さを保っているが、ときには「悪か正義か」みたいなむちゃなそぎ落とし方をして戦いに突っ走る政治家がいたりもして、「普遍的な悪なんて無く、個々の人や民族があるだけじゃないの」なんて問いたくもなるが、深入りしないでおく。 ともあれ、こういう時代だからこそ、ペンは剣よりも強いと信じたいけれど、残念ながら理想にすぎないことが多い。調べてみると、この一文の前にはひとつの前提があったのだった。「Beneath the rule of men entirely great」つまり「完全に偉大な人物の統治のもとでは」。なるほど、そういうことか。

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