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ちょっと知的な雑学&トリビア

街角の電話機

2001年10月31日 【コラム
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 携帯電話の普及で、公衆電話の台数はピークだった1984年の約94万台から急減、現在は全国で約71万台という。
 公衆電話が日本に初めて登場したのが1900年のこと。今は別の意味あいで重い日となった、9月11日だ。場所は新橋駅と上野駅。それまでは電話所に行って頼まなくてはいけなかったのが、人手を介さずにかけられることとなった。同じ年、現在の銀座1丁目交番付近に、最初の公衆電話ボックスが登場している。扉には「自働電話」。
 自分で働くといっても、実際には受話器をとって交換手と話すことになる。交換手の指示で、お金を入れる。10銭か5銭。投入口が違っていて、入れると10銭は「ボーン」、5銭はゴングのような「チン」という音がした。その音を聞いて交換手が投入額を判断、通話先につなぐ。
 最初の電話ボックス、形は六角柱、屋根の下がくびれた灯台のような姿をしている。港から港へのみちしるべとなる灯台、人から人へのコミュニケーションをつなぐ電話ボックス。確かにどこか共通性があるような気がしないでもない。
 公衆電話時代の青春像っていうのもある気がする。六畳ひと間の共同アパート、アパートのピンク電話はたいてい誰かが長電話で使っているから、寒い冬の夜、しっかり着こんで、小銭をポケットに街角の電話ボックスまで小走りにかけていく。午後11時、自宅に住む彼女には時間を合わせて電話の前で待ってもらっている。硬貨をいれて、番号をまわす。すぐに出てくれるだろうか、呼び出し音が鼓膜に響く。1回、2回。葉の散った街路樹を見ている。カチャ、硬貨が吸い込まれる音がする。

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8 comments to...
“街角の電話機”
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小橋昭彦

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あるまま

今、引出しの奥の方で「テレフォンカード」が熟睡しています。


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ダイchan

携帯電話が普及していないころは、必需品だった公衆電話ですが、今では見向きもしなくなりました。
総ガラス張りの電話ボックスではなく、昭和40年代前半まであった窓付きの電話ボックスには、数々の青春の思い出がありますね。
コミュニケーションとしての機能だけではなく、電話をする劇場空間・・・・。いろいろ、ありました。
今となっては、なつかし0な。 ハハッ。


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モヒカン

数ヶ月前から携帯電話を持っていないので、
公衆電話の少なさを肌で感じます。
テレホンカードも売ってませんし。

よく「ケータイ無くて、不便じゃない?」
なんて聞かれますが、持っていない本人より
周りの人たちの方が不便を感じるようです。


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六平太

小橋さんて俺より若いのにそんな思い出もあるんですか?
最後の数行を読んで、思わず「綿入のはんてん」を脈略もなく想い出してしまいました。

できればこの「綿入の半纏」もいつか話題にして下さい。


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小橋昭彦

じつは「ちゃんちゃんこを羽織って」と書こうとして、さすがにこれは通じないかとあきらめました。でも、浮かんだイメージは、確実に「綿入のはんてん」です。

コラムに書いたのは、そのまんまぼくの経験というわけじゃないのですが、ほんの少しの間、寮に暮らしていた頃の思い出と、同世代のともだちの経験談を交えて創作しました。

ちなみに、今では携帯を持っていますが、「外に出かける固定電話」的な扱いです。つまり家族で共有しています。ぼくとハンリョ、そのとき外に出る方が持って出るという。だからぼくとハンリョ、どちらが出ても驚かない人にしか、携帯番号は知らせていません。在宅で働く人間にとっては、携帯って、そのくらいでいいんですよね。


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宿の主人

昔、大阪池田に住んでた彼女と彼女の下宿の近所にある公民館の公衆電話横で待ち合わせをした。

金曜日の夜遅くに車で走っていき、電話ボックスの横に止めて、そのまま夜を過ごし、朝、彼女が起こしに来てくれるのを待つ。冬になれば温かいコーヒーと共にやってくる彼女を寝ぼけ眼で向かえたっけ。

ちょっと薄暗い感じのする場所にある黄色の公衆電話。夜、彼女は200km離れて住んでる俺にここから電話をかける時、怖くなかったのかな?きっと駆け足でやってきて、帰るときも駆け足で帰っていったのかな?

携帯電話は持ちたくない、と言ってきかなかった彼女は便利さから、つい忘れがちになってしまう「物事の順序」を大事にしていたのかもしれない。

結局彼女は15年経った今でも、離れてる俺に連絡をするときは公衆電話からだ。家の内線電話でご飯の支度を知らせる時は別だけど。


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sam

9月11日と言う日は何の日?と瞬間思ってしまった。
本当に公衆電話は、冬の思い出が強い(?)
切実さが伝わった気がします。




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Your Comment:

 ありもしないことを見たと主張する人。ウソをついているつもりじゃなく、真実そうだと信じているらしい。めったにない誤解だろうか。 たとえばディズニーランドに遊びに行った100人のうち30人から40人が「バッグス・バニーに会った」なんて言ったら、あなたはそれを信じるだろうか。バッグスはワーナー・ブラザーズのキャラクターで、ディズニーランドにいるはずがないのに。30人に見たと断言されては、友情出演でもしたかと思わざるを得ないかもしれない。 ところが、そんな記憶さえ、かんたんに作り出せる。実験を行ったのはワシントン大学のピックレルとロフタス。120人の被験者を4つのグループに分け、うち1つのグループにはバッグス・バニーが載った偽のディズニーランドのパンフレットを読ませる。もう1つのグループには切り抜き人形まで見せる。すると、偽のパンフレットを読んだグループでは3割、人形まで見たグループでは4割もの人が、ディズニーランドでバッグスにあったと後に答えたのだ。なかには握手をしたとまで言う人も。 ネッシーが話題になるとネッシーを見たという人が増え、円盤が話題になると発見報告が相次ぐ。それらも、もしかすると同じような背景で記憶が作られたのかもしれない。過去は変えられないというけれど、実際にはこうして、記憶の中でぼくたちは過去を改変してしまう。 そして、考えてみれば、過ぎ去ってしまった以上、ぼくたちの手もとに残るのは記憶しかないわけで、たとえばバッグスにあったと信じている30人が集まって、「かわいかったね、いたずらウサギ」なんて思い出話をはじめたりする、とそこにもうひとつの過去が立ち現れ、それは多くの人に確認された事実として記憶される。こうしてぼくたちは歴史を歩んできたのかもしれないと、なんだかちょっと怖くなったりもしたのでした。

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 昨日、公衆電話から携帯電話への流れをコラムにしつつ、携帯電話は日本人の時間感覚をすこし変えただろうか、と考えていた。以前なら何時何分にどこって厳密に決めていた待ち合わせが、最近は何時ごろにどこそこのあたりでと、おおまかに決めてあとは携帯で連絡をとりあっている。 今でこそ時間厳守の日本人だけれど、江戸時代まではそうでもなかった。そもそも時間のはかりかたが不定時法だ。日の出日の入りを基準に昼間と夜間を六等分する。当然、季節によって時間の長さが変わる。その時間を、寺の鐘などが知らせてくれる。庶民は時計なんて持っていないから、待ち合わせをしようにも、鐘と鐘の間がいまでいう約2時間だから、せいぜい30分ばかりの幅をもった見当でしかつけられなかっただろう。 そんな時間感覚を厳密なものにしていくにあたって、これは欧米でもそうだけれど、もっとも影響を与えたのが鉄道だ。鉄道を滞りなく運行するには、ダイヤに添った定時運行が求められる。また、鉄道が続くところは、各地の時刻を合わせておく必要もある。こうして、鉄道が時間革命をもたらす。日本に定時法が導入されたのは1873(明治6)年のことだが、その前年に初の鉄道が開通していたのは象徴的だ。 幕末から明治維新期にかけて日本の近代化のためにやってきたお雇い外国人は、みな日本人の時間のルーズさに嘆いたという。それもこうした背景を考えれば仕方のないことで、その後の日本人を見てもわかるように、決して人間が怠惰だったわけじゃないだろう。 いま、アフリカや南米に旅した知人らが、現地の時間感覚の悠長さを嘆くのを聞くたび、かつてのお雇い外国人の苦労をしのび、なんだか微笑をおさえられない。 ふるさとではいまもお寺で五時の鐘が鳴る。原子時計の精確さと、里に響く鐘の音と。どっちがいいっていう問題じゃないよね。

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