ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

脳のはたらき

2001年7月10日 【コラム
Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

 宇宙飛行士の若田光一さんがスペースシャトル内でキャッチボールをした光景は覚えていらっしゃるだろうか。なにげないように見えて、脳と意識に関する深い事実が隠れているらしい。
 1998年のスペースシャトルの飛行で、フランスとイタリアの研究者がキャッチボール実験をしている。1.6メートルの高さから速さを変えてボールを落とす。地上ではボールの到着と筋肉の動きのタイミングが合っているのに、飛行3日目の実験ではわずかに筋肉の動きが早い。重力によって加速されることを前提に動かしてしまったからと考えられている。脳は、無意識に重力の影響を計算しているわけだ。若田さんのことばにも、まっすぐ投げようとすると無重力空間では上のほうに投げてしまうとあった。ぼくたちも、ふだんは重力の影響を考えて投げている。
 このところの脳研究の結果、色や形から見ているものが「何か」を知る信号と、位置や動きから「どこか」を知る信号は脳内で別の経路をたどることもわかっている。
 幼いうちに失明したのち、長じてから「開眼」手術を受けた人は、遠くのものが小さく見えること、立体が見る方向によって違う形に見えることに驚きを覚えるという。「何か」と「どこか」という情報が統合されないからだろう。コーヒーカップが上から見ると丸いのに、斜めから見ると楕円であることの不思議。
 考えてみれば、見るものはそのままにしてある、と信じていることのほうが不思議なことかもしれない。視覚だけに頼らないこともたいせつか。拙著『最新雑学の本』も、音訳を進めていただいています。

Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

2 comments to...
“脳のはたらき”
Avatar
小橋昭彦

最近の書籍では、野村進著『脳を知りたい!』がとてもわかりやすくまとめられた一冊でした。また、岩波の認知科学の新展開シリーズ『認知発達と進化』『コミュニケーションと思考』もおすすめ。その他この分野はいろいろおもしろい本があるのですが、またの機会に。


Avatar
jojo

日本語を使う日本人の場合、脳の二ヶ所を使って文を読んでいる、と養老孟司氏の本で知りました。かなはアルファベットを読むのと同じ大脳皮質の部位で、漢字はそれとは別の部位で読んでいる、とのこと。
・・・ちょっと、偉くなった気分。
参考:『臨床読書日記』文春文庫 養老孟司著




required



required - won't be displayed


Your Comment:

 鍼(はり)、灸(きゅう)は、それぞれ国家資格になっている。別の資格ではあるけれど、ツボをどう刺激するかという違いなので、学ぶときも並行して学ぶことが多く、両方の資格をもっている人が多い。 鍼師制は701年の大宝律令にも設けられているというから、日本にも古くから伝えられた様子。戦乱の時期には外科領域にもおおいに活用され、また江戸時代には、お灸は民間療法として広まる。西洋には日本語のもぐさからとって、moxaとして伝わっている。 中国での歴史はさらに古く、最古の医書とされる『黄帝内経』にも鍼灸治療について詳しく触れられている。お灸はおよそ3000年前に発祥、鍼にいたっては新石器時代にも先のとがった石で行っていたという説もある。 祖父が「やいと」をすえていた光景は今でも覚えているが、父母はもっぱら湿布薬。明治期以降、西洋医学が重視され、東洋医学がおしやられたという事情はあるにせよ、むしろ、もぐさが燃えていくあのゆったりした時間を過ごす余裕がいまの時代から消えてしまったのかもしれないと思う。 懲らしめるの意味でお灸をすえるというのは、職業への偏見を生むといった論議もあった。肌にやさしいお灸も登場し、さいきんではそもそも「お灸をすえる」ということば自体、使うことがなくなった。 パソコンに向かう日常、目の疲れや肩の凝りが心配にもなる。西洋医学より、マッサージや鍼灸が恋しくなるひととき。次世代には、「お灸をすえる」は新しい意味を持つようになっているかもしれない。

前の記事

 ふと思い立って三十三間堂へ出かける。1001体の観音像との再会。ゆっくりと、その前を歩いていく。 中ほどに、上を見るように掲示がある。天井に、かつて堂内を彩っていた文様のあとが残っていると。堂内はいまでこそさびた風合いをかもしているけれど、華やかに彩られていたころもあったのだ。さぞかしこの世のものならぬ風景であったろうと想像する。とはいえ、当時のように修復することは許されまい。 美術品の修復は難しい。作家の望んだ形に戻すことは理想のように思えるけれど、ミロのヴィーナスの失われた腕が出てきたといって、それを「修復」することはきっとだれも望まない。教科書で見なれていたくすんだ名画が、修復によって鮮やかな色あいをとり戻しはっとすることもあるけれど、おそらくそのあたりがぎりぎりのところか。 美術品・芸術品の大敵には、劣化のほか、害虫もいる。博物館の被害の筆頭は、ゴキブリだそうだ。ゴキブリのやつ、台所で安住しているかと思ったが、あんがい目が高い。博物館内のレストランなどから忍び込み、古書などの糊の部分を食べる。 人は、風化に価値を感じることができる。三十三間堂の観音像のなかには、どれか一体、自分の会いたいと思っている人の面影が宿っているという。ちょっとしたくすみを、いとしい人のほくろに重ねたりもするのだろうか。それもまた、すてきだ。 子どもにせがまれ、家族で献灯する。手を合わせ、目を上げると観音像の顔、顔、顔。穏やかな顔、ひきしまった顔、ほほえんだ顔。たしかに、さまざまな表情を持っている。ただ、そこにだれかの面影を探すことはしない。会いたい人は、いま側にいるから。

次の記事