ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

意思決定プロセスの脆弱性

2012年1月10日 【雑学なメモ
Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

基本的に人間の思考方法っていうのは、数万年という原始時代に構築されている。近現代の社会はせいぜいこのところ数百年から数千年だから、アップデートされるにはまだ短すぎる。

なので、今の社会での意思決定を求められた時、思考プロセスにはいくつかの脆弱性が残っている。そのひとつが、「主観的な視点」で、その多くは過信をもたらし、幻想をひきおこす。その3つの代表的な「幻想」を、『まさか!?―自信がある人ほど陥る意思決定8つの罠』の著者であるマイケル・J・モーブッサンが、クーリエ2011年10月号に書いていた(p27)ところから紹介する。

  1. 優位性の幻想
    自分はたいていの人より優れているという幻想。
  2. 楽観主義の幻想
    自分の将来は明るいと考える幻想。
  3. コントロールの幻想
    偶然の出来事なのに自分の支配下にあるように考える幻想。

こうした幻想をいだく可能性が自分にはあると自覚しているだけでも、意思決定の精確性は増すはず。

Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn



required



required - won't be displayed


Your Comment:

帰りました。

そんな言葉が、いちばんに出てきた。

ほんとうに久方ぶりに、コラムを書きたいという気持ちがふつふつとわきあがり、調べてみるとコラムとしての配信はもう3年近くしていないのであり、それではと思いきって、今日1月7日に復刊するのだと心に決め、それは創刊14年目を迎えた日ということになるのだけれど、そのようにして、すでに暮れゆく今日を、ここに迎えている。

タイトルはすっと浮かんだ。すでにご存知のとおりである。

このタイトルは、ふるさとに帰り住んで、あらためていいなあと思った風景につながっている。学校から帰ってくる子どもたちが、道ばたで出会う人ごとに「帰りました」とあいさつをする。大人の側もまた、子どもたちそれぞれに「お帰り」と声をかけている。それだけの、日常の風景。

だけどその、通常なら家庭内でするだろうあいさつを、地域の中で他人としているという事実が、しみじみと胸におさまっていく。

ひさびさにコラムを届けると決めたとき、タイトルは「帰りました」しかないと思った。

もっともこの流れはこれまでコラムを書いてきた流れとまったく逆で、ふだんは雑学ネタを決めた後にそれを広げるのに、今回はタイトルが先に決まっていて、そこにネタをあてなくてはならない。

あてどなく、時間を過ごした。

ようやく思い浮かべた風景が、黒澤映画、静かなる晩年の傑作『まあだだよ』に登場する、自分の愛猫を探し求める内田百閒先生の姿であった。ぼくはネコを飼った経験がないが、ネコはときに家出をするものらしい。

 

ネコの家出

ここにあてるネタならある。

昨年5月、アメリカの科学者たちがネコの首輪に無線送信器をつけて、行動範囲を調べたレポート。それによると、飼いネコはおおむね8割、野良ネコは6割をうたたねして過ごしているのだけれど、飼いネコの場合でおよそ半径にして80メートル、野良ネコに至っては半径1.5キロほどの範囲をうろつきまわっていたという。

この違いはもちろん、餌にありつけるかどうかによる差なのだけれど、そもそもネコ科の動物は、一定の縄張りを維持すべく歩き回る。野生のライオンなら半径10キロといったこともあるようだから、ネコの場合はずいぶん小さい行動範囲ではあるけれど、小さきライオンとして、自らの縄張りを睥睨して回っているのだろう。

出歩くうちには縄張り争いや事故もある。なんとか無事にわが家に戻ってほしいものである。

自分自身が少年だった頃も、「帰りました」と言っていたことを思い出す。学校からの帰り道、田畑で働いているおじさん、おばさんとあいさつを交わした。農業が機械化されて、今、かつてほど多くの人を田畑で見かけることはなくなった。耕地整理が行われ、ぐねぐねした畦道を歩くこともなくなった。

それでも、こんどは自分がおじさんになって、子どもたちの「帰りました」という声を聞く、そんなときぼくは、「お帰り」と言葉を返しつつ、「帰りました」と心の中で言葉を重ね、四半世紀以上前の風景の中にいる。

人文地理学のイーフー・トゥアンは、「空間」と対比して「場所」には、経験を通した愛着が伴うと言っている。とすればこれがまさに、ぼくにとっての「場所」ということであるのだろう。

 

ダンバー数

子どもたちにとっての場所である「わが家」とはどこだろう。

第一義的には家庭だ。しかし、「帰りました」と言える「わが家」はもっと広い。どのくらいがホーム感のある範囲なのだろうか。

これまでとりあげる機会がなかったので、とりあえずは、進化心理学のロビン・ダンバーによる説を引用する。ヒトの脳が安定して処理できる個体数の上限が150人だという説で、ダンバー数と呼ばれている。この数字、Facebookなどによるソーシャルグラフが注目される昨今、ときに話題に上る。さまざまな部族の村落人口もそのくらいというから、興味深い。

ちなみに、わがふるさとの自治会は世帯単位で入るから、個体ではなく世帯で考えるとするなら、自治会を構成する世帯数が100世帯までということになり、一応、符合している。とはいえ、子どもの「わが家」は自治会と一致するわけでもなく、おおよそそのくらいの範囲であろうと見当をつけるほかない。

 

親密な場所

いま「場所」と表現して気づいたのだけれど、ぼくは、コラムを配信していく一連の行為に対して、「場所」に似た感覚を抱いているらしい。前述のトゥアンは、『空間の経験』に、「場所」は、肘掛け椅子から地球全体までさまざまな大きさを持つと書いているが、ぼくはそれをさらにおしすすめ、場所から地理的要素をはぎとって、親密さを抱く経験そのものに、場所的な感覚を抱いているようだ。

帰りました、とタイトルを選びながら、この三年、ことにこの一年の間に起ったできごとに思いをはせていた。そうすると、帰りましたと言える場所があることのしあわせに思い至らざるを得ず、それを言葉に記すことの重みにおしつぶされそうになって、なんどか筆を止めた。

しかし、だからこそ「帰りました」といえる場所を保っておきたいと、そんなふうにも考えたのだ。ただ自分のためではなく、誰かひとりでも、このささやかな場所を懐かしいと感じていただけるなら、それで充分ではないか。

それというのも、これはぼくの勘違いであることを望むのだけれど、心から安らいで「帰りました」と言える場所が、とても少なく思える世の中になっている、そんな気がして仕方がないから。

前の記事

ハトは群れで飛ぶために、どれほどの代償を払っているのか。じっくり調べた研究結果が発表されている。

Natureの2011年6月23日号に掲載された”Flying in a flock comes at a cost in pigeons”(Nature474,494 497)という論文。ちょっと引用しよう。
(1) maintain powered, banked turns like aircraft, imposing dorsal accelerations of up to 2g, effectively doubling body weight and quadrupling induced power requirements;

(2) increase flap frequency with increases in all conventional aerodynamic power requirements;

(3) increase flap frequency when flying near, particularly behind, other birds.
とある。群れで飛ぶときは旋回に2倍の重力加速度がかかり、4倍の出力が必要だという。羽ばたきの頻度も速くしなくてはいけない。なお、ペリカンの場合は、逆に群れで飛ぶことでエネルギーを蓄積しているそうだ。逆に言うと、ハトにとっては、それほどのコストをはらってまで群れるメリットがあるということ。天敵への対策とか。

ちなみに、鳥が群れで飛ぶ様子については、以前「群れの行動」で紹介した「boids理論(提唱者のレイノルズ博士サイトへのリンク)」が面白いので参照ください。

次の記事