ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

片方にだけ耳のある壁は作れる

2011年5月12日 【雑学なメモ
Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

マジックミラーならぬマジックウォールとでも呼ばれるようになるんでしょうか、音波を一方向にだけ通すことができる壁を作ることが可能だということが理論上、確かめられました。

One-Way Sound Walls Proven Possible

人間の心理として、壁に耳をつけて隣の様子を知りたい、ということはありますね。一方で、障子に目があったり壁に耳があってはいやだなあというのが心情。ということで、自分の音は漏れないけど、外の音は入ってくるという壁にはニーズがありそう……、かというと、どうなんでしょうね。アイデアの絞りがいがありそうなテーマではあります。

論文は下記。

Asymmetric Wave Propagation in Nonlinear Systems

A mechanism for asymmetric (nonreciprocal) wave transmission is presented. As a reference system, we consider a layered nonlinear, nonmirror-symmetric model described by the one-dimensional discrete nonlinear Schrodinger equation with spatially varying coefficients embedded in an otherwise linear lattice. We construct a class of exact extended solutions such that waves with the same frequency and incident amplitude impinging from left and right directions have very different transmission coefficients. This effect arises already for the simplest case of two nonlinear layers and is associated with the shift of nonlinear resonances. Increasing the number of layers considerably increases the complexity of the family of solutions. Finally, numerical simulations of asymmetric wave packet transmission are presented which beautifully display the rectifying effect.(Phys. Rev. Lett. 106, 164101 (2011))

Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn



required



required - won't be displayed


Your Comment:

日経サイエンス2011年6月号の特集は東日本大震災。なかに心理学方面から心の回復力を取り上げた記事(「立ち直る力のメカニズム」G.スティックス)がありました。回復力の英語はresilience。反発力というのが語義。

回復への過程は人それぞれです。悲しい中に、笑いもあります。強がりの笑い、というわけでもないそうです。
(前略)ビデオをスロー再生して、眼の周りの眼輪筋の収縮を調べた。この表情筋の動きでできるしわは「デュシェンヌ線」と呼ばれ、これを見ると、本物の笑いと儀礼的な笑いを見分けることができる。その結果、悲嘆に暮れている人の笑いは本物だと判明した。
また、通常の状況ならナルシズムにとらえられかねないような「自己高揚バイアス」に陥る人もいます。だけど、そのおかげで、「あのときこうすればよかった」という終わりのない責めから脱出できているのかもしれない。
先の笑いの研究と同様、死別を経験する過程をより詳細に見ると、喪失への健全な適応過程を表すのに使われてきた分類にうまく当てはまらないような、さまざまな反応がとらえられた。それが複雑多岐にわたるのを見て、ボナーノは従来の分類に当てはまらないこうした反応を「不格好な対処法」と名づけた。
不格好でもいいじゃん。そうした人それぞれの対処法が、心を救っている。

回復力の本質は何かという問いに、脳と化学の方面から解説した部分についてもメモしておきます。

危機的な状況下になると、ストレスシグナルとしてコルチコトロピン放出ホルモン(CRH)が大量に分泌される。このホルモンがさまざまな化学物質を誘発し、戦うのか逃げるのか、さまざまな選択肢が活発に脳内で検討される。でも、ストレス状況が長く続いてこうしたストレスホルモン(たとえばコルチゾール)が大量に分泌された状態のままになると、心や身体を傷つける。回復の早い人は、ある種の保護物質を持っていて、こうしたストレスホルモンの働きが早い段階で抑制されるという。そうした化学物質はたくさんあるそうだ。たとえば視床下部で作られコルチコトロピン放出ホルモンを阻害して不安を鎮めるニューペプチドYなど。

最後に、どうしてぼくたちは回復力を持っているかについて、コロンビア大学のGeorge A. Bonannoの推測。
誰かを失った後の沈んだ気分は癒しの助けになるが、仮借のない深い悲しみは、病的なうつ状態のように、とうてい耐え難いもので、人を押しつぶしてしまう。このため、たいていは私たちの脳の中の回路が働いて、悲しみに打ちひしがれた心理状態が続かないようにする。
進化心理学的な観点からも納得できる話です。悲しみを乗り越えられなかったら、死別の多かったろう古代から現代まで、ヒトは生き残れなかったでしょうから。これまでも何度も大きな悲しみを乗り越えてきた。それがヒトという種なのでしょう。

前の記事

帰りました。

そんな言葉が、いちばんに出てきた。

ほんとうに久方ぶりに、コラムを書きたいという気持ちがふつふつとわきあがり、調べてみるとコラムとしての配信はもう3年近くしていないのであり、それではと思いきって、今日1月7日に復刊するのだと心に決め、それは創刊14年目を迎えた日ということになるのだけれど、そのようにして、すでに暮れゆく今日を、ここに迎えている。

タイトルはすっと浮かんだ。すでにご存知のとおりである。

このタイトルは、ふるさとに帰り住んで、あらためていいなあと思った風景につながっている。学校から帰ってくる子どもたちが、道ばたで出会う人ごとに「帰りました」とあいさつをする。大人の側もまた、子どもたちそれぞれに「お帰り」と声をかけている。それだけの、日常の風景。

だけどその、通常なら家庭内でするだろうあいさつを、地域の中で他人としているという事実が、しみじみと胸におさまっていく。

ひさびさにコラムを届けると決めたとき、タイトルは「帰りました」しかないと思った。

もっともこの流れはこれまでコラムを書いてきた流れとまったく逆で、ふだんは雑学ネタを決めた後にそれを広げるのに、今回はタイトルが先に決まっていて、そこにネタをあてなくてはならない。

あてどなく、時間を過ごした。

ようやく思い浮かべた風景が、黒澤映画、静かなる晩年の傑作『まあだだよ』に登場する、自分の愛猫を探し求める内田百閒先生の姿であった。ぼくはネコを飼った経験がないが、ネコはときに家出をするものらしい。

 

ネコの家出

ここにあてるネタならある。

昨年5月、アメリカの科学者たちがネコの首輪に無線送信器をつけて、行動範囲を調べたレポート。それによると、飼いネコはおおむね8割、野良ネコは6割をうたたねして過ごしているのだけれど、飼いネコの場合でおよそ半径にして80メートル、野良ネコに至っては半径1.5キロほどの範囲をうろつきまわっていたという。

この違いはもちろん、餌にありつけるかどうかによる差なのだけれど、そもそもネコ科の動物は、一定の縄張りを維持すべく歩き回る。野生のライオンなら半径10キロといったこともあるようだから、ネコの場合はずいぶん小さい行動範囲ではあるけれど、小さきライオンとして、自らの縄張りを睥睨して回っているのだろう。

出歩くうちには縄張り争いや事故もある。なんとか無事にわが家に戻ってほしいものである。

自分自身が少年だった頃も、「帰りました」と言っていたことを思い出す。学校からの帰り道、田畑で働いているおじさん、おばさんとあいさつを交わした。農業が機械化されて、今、かつてほど多くの人を田畑で見かけることはなくなった。耕地整理が行われ、ぐねぐねした畦道を歩くこともなくなった。

それでも、こんどは自分がおじさんになって、子どもたちの「帰りました」という声を聞く、そんなときぼくは、「お帰り」と言葉を返しつつ、「帰りました」と心の中で言葉を重ね、四半世紀以上前の風景の中にいる。

人文地理学のイーフー・トゥアンは、「空間」と対比して「場所」には、経験を通した愛着が伴うと言っている。とすればこれがまさに、ぼくにとっての「場所」ということであるのだろう。

 

ダンバー数

子どもたちにとっての場所である「わが家」とはどこだろう。

第一義的には家庭だ。しかし、「帰りました」と言える「わが家」はもっと広い。どのくらいがホーム感のある範囲なのだろうか。

これまでとりあげる機会がなかったので、とりあえずは、進化心理学のロビン・ダンバーによる説を引用する。ヒトの脳が安定して処理できる個体数の上限が150人だという説で、ダンバー数と呼ばれている。この数字、Facebookなどによるソーシャルグラフが注目される昨今、ときに話題に上る。さまざまな部族の村落人口もそのくらいというから、興味深い。

ちなみに、わがふるさとの自治会は世帯単位で入るから、個体ではなく世帯で考えるとするなら、自治会を構成する世帯数が100世帯までということになり、一応、符合している。とはいえ、子どもの「わが家」は自治会と一致するわけでもなく、おおよそそのくらいの範囲であろうと見当をつけるほかない。

 

親密な場所

いま「場所」と表現して気づいたのだけれど、ぼくは、コラムを配信していく一連の行為に対して、「場所」に似た感覚を抱いているらしい。前述のトゥアンは、『空間の経験』に、「場所」は、肘掛け椅子から地球全体までさまざまな大きさを持つと書いているが、ぼくはそれをさらにおしすすめ、場所から地理的要素をはぎとって、親密さを抱く経験そのものに、場所的な感覚を抱いているようだ。

帰りました、とタイトルを選びながら、この三年、ことにこの一年の間に起ったできごとに思いをはせていた。そうすると、帰りましたと言える場所があることのしあわせに思い至らざるを得ず、それを言葉に記すことの重みにおしつぶされそうになって、なんどか筆を止めた。

しかし、だからこそ「帰りました」といえる場所を保っておきたいと、そんなふうにも考えたのだ。ただ自分のためではなく、誰かひとりでも、このささやかな場所を懐かしいと感じていただけるなら、それで充分ではないか。

それというのも、これはぼくの勘違いであることを望むのだけれど、心から安らいで「帰りました」と言える場所が、とても少なく思える世の中になっている、そんな気がして仕方がないから。

次の記事