すべては戻ってきたハープから始まった。
カリフォルニア大学心理学部助教授による、超能力についての探求の旅。科学者にとって、超能力を研究することはある意味とても危険なことだ。「アッチの人になった」と学会から無視されかねない。
それでも彼女が超能力に関連する情報を集め始めたのには、理由がある。戻ってきたハープだ。
盗まれた娘のハープを探していた著者は、友人から紹介されて、ダウザーに尋ねることになった。ダウジングとは、二股に分かれた棒を手に、地下水や鉱脈をさぐりあてる、あれである。
もちろん、著者だって信じていたわけではない。娘が大切にしていたものだったから、できることはなんでもやっておこう、という程度。
ところが、アーカンソー州に住んでいたダウザーは、送られてきた地図をもとに、オークランドにある住宅を探せと、アドバイスする。
そして、ハープは見つかった。
これは何なのか、と著者であるメイヤーは思う。
およそ信じがたい。しかし、事実としてハープは見つかった。
この、信じがたいという思いと、事実との間をつなごうと、著者は苦心する。彼女が優れているのは、どちらの立場が正しいのかと問うのではなく、なぜ多くの人がまず「信じがたい」と思うのか、と問うているところだ。心理学者の面目躍如といったところ。
とりあげる超能力には各種ある。
透視。テレパシー。メイヤーは、全面的な肯定からうさんくさい議論を展開するわけではない。かといってトリックを見破ろうと全面否定の態度で取り組むわけでもない。
絶えず疑いつつ、発見された事実を拾い上げ、やはりなおかつ、それらは実在すると結論する。
科学者としての良心にあふれた著書だ。
同時に、メイヤーは問いかける。
われわれは、科学の眼だけで世の中を見ることができるのだろうかと。
透視やテレパシーについて知るためには、別の見方をしなくてはいけないのではないか。ルビンの壷(見つめあった人の横顔にも壷にも見える隠し絵)のように、どちらかの視線でみていると、もう一方は見えない。どちらもを同時に見ることはできない、そのように、科学の眼から見ていては見えないものが、世の中にあるのではないか。
この問いは重い。
そして、この問いを乗り越えないことには、将来にわたって、「透視」や「テレパシー」が実在することは、無いのではないか。科学的な見方が絶対だとされているうちは、決して見えない世界があるのではないか。
いま、透視やテレパシー、あるいは気功を「科学的」に説明しようとする立場がある。しかし、科学的に説明することがゴールなのか。
たとえば、「ゾーンに入る」という表現がある。投手が投げた球が止まってみえる、といったように、ある種の究極の集中状態。そういう状態になったとき、最高のパフォーマンスが引き出せると考えるプロ選手は少なくないようだ。
だけどそれを科学的に説明することは、できない。だからといって、そんなことありえないと結論付けることもできない。
ぼくたちが科学的に説明しようとするのは、科学的であることが知識の共有や再現性の確保、検証などに欠かせないからだ。
要するに、科学的な姿勢とは、コミュニケーションのための言語のひとつ。言葉にないものまでは、語れない。
科学的に語れることがゴールではなく、科学とは違う言葉を探し出すことが、人類にとってのゴールかもしれない。
そのことを、教えてくれる本。
タイムマシンなるものに乗って過去に行き「ある物」の発明以前の時代で披露する。
200年前に行って、電球を見せたり、100年前に行ってPCを見せたり・・・。
行った先の時代の人間は胡散臭いと思うでしょう。
しかし、それは「未だ見ぬ物」ってだけで、怪しい物ってワケでは、ないですよね。
まぁ、その時代のヒトには充分に怪しいですが・・・。
超能力も解き明かされてみれば、普通の「科学」かも。
進んだ科学は魔法と身わけがつかない、ですね。
科学の文法っていうのがあって、たとえば同じ条件で追試したら再現できたり、条件がわかれば予測できたりっていう必要がありますよね。
超能力は、その「文法」で記述できないのが、うさんくさいと思われる原因でしょう。とすれば、新しい、誰もが納得できる文法を作れたなら、ということになるのかなあ。