なにかをとどこおりなく行ったつもりでも、ぼくたちの行為には小さな淀みがひそんでいる。手を伸ばそうとした方向を微修正したり、つかもうと開いた手の開き具合を調整したり。それは必ずしも意識された修正ではない。研究者リードとショーエンヘルは、それをマイクロスリップと名づけている。
たとえば卓上にあるものをつかもうとするときのマイクロスリップには、動作をためらう「躊躇」、手の向きを変える「軌道の変化」、ちょっと触ってから変える「接触」、手の形状を変える「手の形の変化」がある。日本では三嶋博之博士らによって追試がされているけれど、「クリームと砂糖を入れたものと、クリームだけを入れたものをそれぞれ一杯ずつ、計二杯のコーヒーを作る」という課題だと、大学生で平均2.6回のマイクロスリップを起こしたという。米粒などまぎらわしい材料をテーブルに揃えると5.3回にまで増える。
マイクロスリップを起こしにくくする方法もある。ひとつはテーブル上の配置を自分が作業を遂行しやすいように整えること。クリームと砂糖はひとまとまりにして、お湯は別の場所の置くなどの工夫だ。そしてもうひとつは、同じ行為を繰り返すこと。つまり反復練習だ。1回目で5回を超えていたマイクロスリップも、3回目には1.8回になったという。整理整頓や繰り返し訓練というのは、日常でも口にされる心がけだ。
ただ、マイクロスリップに対して過剰に意識することは避けるべきだろう。むしろぼくたちはマイクロスリップを重ねながら、最適な方法で課題を達成するようにできていると考えた方がいいのではないだろうか。マイクロスリップを起こしやすい複雑な環境は、それだけ多様な行為の可能性があることの裏返しでもある。ましてや、数多くの情報が個人のもとに集まる現代、ぼくたちは小さな小さな間違いを重ねながら、少しずつ今日よりいいと思える明日に向っていく。そんな余裕を認めたいと思う。
マイクロスリップというのは、アフォーダンス研究の一環です。過去のコラム「アフォーダンス [02.02.11]」もご参照ください。今回紹介した三嶋博士の研究も、そのときの参考書『アフォーダンスと行為』に紹介されています。
僕は、いつもスリップしてます。
法人設立おめでとうございます。
ところで、「高橋さんが関係された「コアラ伝説」」って何ですか?
マイクロスリップを出来るだけ起こさないようにして仕事をするところが、現代の製造工場なのではないでしょうか? 人が作業しやすいように部品や工具を配置し、手順をマニュアル化し、それにしたがって作業するように半ば強要させられる。少なくとも私がかつて在籍していた会社ではそうでした。会社的にはそれは必要なことなのでしょうが、人間性を失います。「マイクロスリップに対して過剰に意識することは避けるべきだろう」に私は大賛成です。
ちゅうそんさん、ありがとうございます。説明が長くなるといけないので、とりあえず、該当ページ内にリンクをはっておきました。初期の取組として定番的に出されるので「伝説」とプロモーション的表現をしています。(ややこしいので、リンクの際に名称だけにしておきました)
初めて聞く用語で新鮮でした。MOLEさんと同じように私も仕事にはマイクロスリップは最終的には不必要におもいます。ですが人間性の面では、突き詰める事も発展には必要なのでは?とも思っています。自分の些細な行動も、慎重に観察してしまいそうです。
「アフォーダンス」についてコメントで書かれましたが、それは元来ギブソンが「生態学的視覚論」という立場で書いた「知覚心理学」による論文を拡大解釈しています、源論文とは認識に多少ズレが生じています、本テーマの「マイクロスリップを論じるなら同じ心理学の解釈でも「強化学習と制御」」で書かれた「ロボットの二足行」に間する見識&解釈に役立てようとするのがより適切じゃないですか、恐らくそこで論じられている「入力情報と行動の誤差(視差など)」に関してのものであるはずです、では何故入力情報との誤差が認識されるのかというとバイオフィードバックの過程がそこにに設定されているからですバイオフィードバックの過程で生じる誤差がマイクロスリップであるはすでアフォーダンス(環境)側との間に生じる微小な誤差は精密なレベルのフィードバック分析無しでは認識に生じるはずが無い現象で本来無視されます、小橋さんの指摘はこの「無視」の「有意義効果&効用、意義」を論じることに修練してゆきます。「無視」または「見える見えない」問題に注目するのは当人が哲学者のメルロポンティの時代の現象学の諸論文を基礎にしているからです、この問題は現在多くは「現代量子論」で扱う「観測問題や量子予測」に修練するべきテーマに思えます。以上私見を述べましたが、これはむしろ「なるべく面白い議論を多様に起こす意味に注目」したいいつもの小橋さんの発言のスタイルですね、失礼
トクツトミオさん、ありがとうございます。
小さな間違いを封じて二者択一に向うような世の中への疑問から、個々人の意思のところに観点があったので、認知の先の部分で文章を起こしました。個人的には進化論との重なりを意識しつつ文章を書いていたのですが、ご指摘を読みつつ、量子論の観測問題と進化論の関係に空想(妄想)を飛ばしていました。
高校生の頃に、意識的に常に最適な動きと行動をしていたら、感情の起伏まで引き摺られて最適化されそうになりました。無駄がある種、凄く大切なのだと実感したことがあります。肉体が精神に、精神が肉体に及ぼす影響の恐ろしさですね。
達人技などというのはマイクロスリップが極端に小さい状態なのでしょうか。
茶道や武道の動きに美しさを感じる一方で、無駄のある動きにも愛着を感じる。
一芸に通じる者は百芸に通じる。という言葉がある一方で
専門馬鹿という言葉もある。
結局結論は出ない。
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