小橋 昭彦 2004年12月2日

 友人のデザイナーの子は絵がうまい、血は争えない。そう言うと、どうでしょう、ふだん子どもの前で絵を描いていますかと返され、あ、と息をのんだ。血というより、日々の積み重ね。「学ぶ」は「まねぶ」、「真似る」の文語形に通じている。「習う」は「倣う」。個性という言葉の影で、学習とは模倣であったことを見過ごしていたかもしれない。
 オリジナリティ、独創という言葉はどこか神々しい。ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」の中で、どんなに完璧な複製においても<いま”ここ>的性質、オリジナルの真正さは持ち得ないと指摘している。現代では「オーセンティシティ」といった用語で真正さ、正統性を表すことが多い。しかし、真正さとは何だろう。現代環境におけるダヴィンチ鑑賞は真正のものだろうか。鑑賞者が背負う時代背景が違えば、芸術が同一のものであっても、もたらす興趣が違う。
 一方の模倣については、「醜い家鴨の仔の定理」がある。対象を表現する述語の数が有限であれば、アヒルと白鳥の類似度も白鳥と白鳥の類似度も変わらないということを数学的に証明したものだ。アヒルと白鳥より、白鳥と白鳥の方が似ているというためには、対象を表現する述語のどれを重視するかという価値判断が入らざるを得ない。模倣の判断基準は、作品そのものではなく鑑賞者の価値観に根ざすということだ。
 大乗寺客殿の障壁画は、円山派の思想空間として評価されている。その襖(ふすま)絵をはずし、精巧なレプリカをはめるプロジェクトが進む。これによって鑑賞者は、実際に部屋の中で襖絵に囲まれるという、当時のような体験を得ることができる。では、博物館のガラスケースに展示される「真正の」襖絵を前にするのと、大乗寺でレプリカの襖絵に囲まれるのと、どりらがより「真正の」体験だろう。考えるほど、対象ではなく、自分の中で<いま”ここ>で生起するものをこそ、重視するほかなくなってくる。

6 thoughts on “模倣と真正さ

  1. 最終段落で述べた大乗寺のプロジェクトについては「襖絵保存プロジェクト」をご参照ください。

    ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」は『ベンヤミンコレクション』所収。

    醜い家鴨の仔の定理については「醜い家鴨の仔の定理」の解説がわかりやすいです。また、オーセンティシティについては、関連して旅行とのつながりが気になったので(「第6回観光に関する学術研究論文」等参照)、旅について、またとりあげてみるかもしれません。

    なお、『模倣と創造のダイナミズム』が参考になります。

  2. 僕も小さい頃から絵を描くのが好きで気がつけばデザ
    イン関係の仕事をしていた。子供は皆絵を描くのが好
    きな物だと思っていたが、気にはしていなかったが子
    供とお絵描きを家で遊ぶ機会は多い気がする。幼稚園
    でも絵が上手なのは評判らしく、今回は市のコンクー
    ルで入選したらしい。ちょっと自慢!が、しかし、運
    動がダメで毎年運動会は一番になれない、両親とも足
    が遅かった記憶がないので、健康も考えてだがランニ
    ングを始めた。先日はマラソン大会に参加して27km/
    2:30:46で494/2254位でなんとかゴールした。子供に
    も見せて刺激を与えている。
    そして、とってつけたようであるが、芸術的表現にお
    ける模倣と真正さの論点は奥深いがスポーツの観点で
    考えるとトレーニングは模倣て先人の教えの中から新
    たな記録へのチャレンジがあり、誰もが到達できな
    かった記録は芸術のそれと同じで神々しい。エジソン
    の発明は99パーセントの努力と1パーセントのひらめき
    だとの言葉も思い出す。真正さとは努力と鍛錬の中か
    ら生まれる一番高いある到達点ではないかと思う。今
    回のテーマの論点とあったかな?

  3. 芸術って誰の為に? 私自身に創造性と言う物が無いのを思いっきり棚に上げてのハナシで恐縮ですが・。創る側からは 自己満足とか 創りたい衝動とかが あるんでしょうな。 それが その人の「真正」でしょうか。 一方 ただ鑑賞しか出来ない者にも「真正」はある。 「感動」ってヤツだと思う。評論家の言う事なんか「ウ○チ召し上がれ」でいいんじゃないか。
    著作権なんて問題もあるけど とりあえず いろんな場面で 模倣と真正について答えを曖昧にして逃げてるボクです。

  4. 円山応挙プロジェクトは気になっていました。
    誰のための、何のためのプロジェクトなのか。
    作品の腐敗を防ぐための保存という観点から、
    美術館に収容するのは分かるのですが、
    再現するというのはどういう効果があるのか・・・
    よくわかりません。
    どこかのアトラクションにある「真実の壁」なんかと
    同じような気がしてならないのです・・・。
    楽しければいいのかな。

  5.  上野動物園に行った時の感想。

     あの動物園は、とてもデザインにこだわっていると
    ある本を読んで知った。単なる見た目の話ではない。
    リクリエーション、学習、研究、保護、その他・・・
    の場として、社会の中で動物園がどう在るべきかを考
    え、それを形にした(デザインした)ものらしい。

     入り口の近くに、パンダがいた。強化ガラスを用い
    て展示?することにより、間近で見れるようになって
    いる。もう少し進むと、サル山があった。深い溝で山
    の周りを囲むことにより、行き来できないようになっ
    ている。ただし、サルと人間の距離はかなり遠い。

     個人的には、サルの方が身近に感じたし、その動き
    一つひとつに感動した。同じ空気の中にいるためか。
    一方、どんなに近くてもガラスで隔たれたパンダに心
    は動かされなかった。「物理的な距離」と「心理的な
    距離」は必ずしも一致しなかった。

     しかし、研究者にとっては反対かもしれない。近く
    で細かいところまで観察できるパンダに大きな感銘を
    覚え、遠くで動いているサルには何も感じないのかも
    しれない。

     人によって、心から共感・感動するところは異な
    る。それは、今まで積み重ねてきた各々のバックヤー
    ドによって生じるのではないか。真正を感じる対象
    は、単なるアウトプットだけかもしれないし、それま
    での過程やこだわりを知ったときかもしれない。それ
    らに対し、自分と重なる部分に何かを感じる。どこか
    で知っているからこそ真実を感じる。無意識に求めて
    いたからこそ感銘を受ける。もしくは、経験と重なる
    部分が全くなく、驚きを得る。

     真正とは、やはり、ひとつではないように思える。
    人々の心が様々であるように、各々の意識が「真正」
    と思うかどうか。「真正」とは、多くの人の共感が得
    られるスーパーヒーローかもしれないし、我々にとっ
    て到底受け入れ難いテロなのかもしれない。

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