養蚕を営む隣家は、今も桑畑に囲まれた古民家の風情を残す。夏になると小屋からかしゃかしゃと葉をはむ音が漏れ、やがて幼虫たちは天井から吊るされた格子状の箱のそこかしこで繭を作る。日にかざせば、透き通った繭の中に身体を丸める幼虫が見える。
それらが成虫になることは、ない。殻を破る前に殺されるからだ。たとえ野に放しても、成虫は身体が重すぎてほとんど飛べず、捕食者から逃げられない。伝説によれば、養蚕は紀元前2640年の中国で始まったという。当時から人は蚕を、絹の生産に適すように「改良」してきた。
現代の遺伝子工学は、土壌細菌とトウモロコシなど、自然界では考えにくい組み合わせまで実現する。ぼくたちはかくも、自然に手を加えないではいられない。リンゴもイネもネコもブタも、手を加えられて今ある。それは必ずしも一方的ではなく、稲に一面を覆われた水田が同時に多様な生態系を生み出していたりするし、猫も、改良されつつ人を利用してきたかもしれない。
ショウジョウバエとヒトは、およそ6億年前に分かれたという。それでも、ヒトの病気を引き起こす突然変異遺伝子289のうち、177がショウジョウバエにも見られるという。仮にいま大きな方眼紙の上にぼくたちが立ち、その隣に、遺伝的距離の分だけ離れてチンパンジーに立ってもらう。むこうには、同じ池で見つかった二匹のサンショウウオ。さらに遠くにはショウジョウバエもいる。注意してみれば、二匹のサンショウウオ間の距離のほうが、ぼくたちとチンパンジーの距離よりはるかに離れていたりする。
今はしばし、自分の地図で世の中を見るのを避けてみよう。大きな方眼紙を広げ、それぞれの「間(ま)」に注意を払う。この数千年、蚕はその上を、どれほど移動しただろう。いまトウモロコシを、どれほど移動させようとしているのだろう。ぼくたちは、その方眼紙の中央にさえ、立っていない。
スー・ハベル『猫が小さくなった理由(わけ)』が参考になります。『欲望の植物誌?人をあやつる4つの植物』も気になる一冊。
遺伝子組み替えは本当に世界人類を飢餓から救ってくれるんだろうか?
その前にどうして人間は戦争をやめて食糧を仲良く分け合うことができないんだろう?
すでに存在する生命を、チェスの駒のように方眼紙上を移動させるのは
人間に許された技なのか、それとも禁じ手なのか。
どんどん繁殖して決して枯れない花を売り、次にその花を駆除する薬を売る宇宙人の話、というのが
星新一氏のショート・ショートにある。
人間のやっている営みって、
時間を早送りするとそれと変わらないかもしれない。
MAXさんの「チェスの駒のように・・・人間に許された・・・」は単なる人間の誇大評価かも知れませんよ?
確かに稲も猫も蚕も人間の営みに適合するよう改良されてきました。
しかし、本来遺伝子の多様性が種の全滅を防ぐ手段である事を考えれば、親子の間にさえ種の絶滅を避けるという、とてつもない可能性を秘めた距離があると言うことになるじゃないですか。
ですから、結局人間が行っている改良なんて、朝ヒゲを剃るかそらないか程度かも?
だからと言って、何をしても良いとは思えませんが。
遺伝子距離は遠くても、心の距離は遺伝子や種を示す数値と違って隣接していると信じたいですね。
篠田節子「絹の変容」という小説では改良された蚕が人を襲います。とても怖い小説でした。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087727742/ref=sr_aps_b_1/249-6994682-4953966
>それらが成虫になることは、ない。殻を破る前に殺されるからだ。
読んでいた目が止まる一文でした。
そうですね、忘れていた、というより意識すらしなかった事実です。
蚕は小学生のときに授業の一環で実際にクラスで飼っていました。桑の葉をやって繭になるのを見守って。
桑の葉をどれだけ食べた、何センチになったなどといって「いきもの」としてみていたのに、糸を取り出すときにはもうそんなこと忘れていたような気がします。糸がするする鉛筆に巻き取られることにばかり気をとられていました。
そんなことを思い出した今日の雑学です。