決めなくてはいけないことがあって、候補が3つあったとする。話し合って決めるわけだけれど、それぞれの思いがあって決めにくい。そこでまず2つの候補で決をとり、選ばれたほうと、残ったひとつを比べることにする。2つの比較なら決めやすいし、結果としても民主的。その考えが間違いと知ったときは、驚いた。極端にはなるけれど、じゃんけんを例にしてみよう。まずパーとグーで決をとる。パーの勝ち。そこでパーとチョキで決をとる。チョキが勝つ。結果、チョキが選ばれる。どこかおかしい。現実の多数決においてもこの状況は起こりえ、投票のパラドックスとして知られる。その場合、議長は自分が通したい案を最後にたたかわせるだけで、思いがかなうことになる。
合議なら三人寄れば文殊の知恵、最高のパフォーマンスを得られるだろうか。社会心理実験の結果によれば、グループで問題を解いたとき、平均的なメンバーの水準よりは上に行くけれど、最良のメンバーほどの成績はおさめられないという。ならば最良のメンバーの中に埋もれているものをいかに引き出すかがポイントか。しかし、これもまた難しい。ステイサーらが行った実験によると、グループで議論する場合、メンバー間で共有して持たれている情報が議題に上る可能性が高くなる。そこで、ひとりの中で眠っている情報を表に出そうと「できるだけ情報を思い出して議論しよう」と言ったとする。ところが意に反して、個人の中で隠されている情報が思い出される以上に、共有情報が話し合われる可能性がいっそう高くなるという矛盾がある。
そんなこんなで、民主的な意思決定って何だろうと悩んでいたとき、民主主義とはやり直しのチャンスを残した実験という言葉に出会った。新しい事実が出てきたとき、いつでも前の決定を見直せるのが民主主義だと。それはなんだかとてもやさしいことに思え、ナイーブにすぎるかとは思いつつ、しばし、心を休めた。
今回は『複雑さに挑む社会心理学』を参考にしました。このところ、社会心理系のネタが多いですね。すみません、まとめ読みしていたりするもので。
この表題は、私のHPに紹介している「多数決は正しいか」という内容に該当するもので、元々はKT法と呼ばれた思考手法の中に例示されています。小橋さんの感傷に同意し、
多数決が正しい、多数決に従うべきという国内の風潮にいささか疑問も感じています。最近、参考になる雑学の御紹介が多く、内容に興味深々です。
「複雑さに挑む社会心理学」なるものも購入して呼んでみたいと考えています。
多数決とは、「みんながそれを選んだんだから、正しい」ということではなく、「みんなで選んだんだから、しかたがない」という、納得のための手段だと思うのですが。
なたね梅雨でしょうか、こんな日が続くと学童保育は
外遊びが出来ないので、狭い部屋でひしめきあってト
ラブル続発!そんなときは『正直ジャンケン』で一発
解決?!多数決も大いに役立ちます。いまのところ、
これほどスピーディで簡単な方法は見つかりません。
ただ時として合点がいかない子の非常なアピールで、
もう一度最初からジャンケンのやり直しも発生しま
す。一同水に流し(イヤイヤの子のしぶしぶ)スタート
地点から。子供って結構マナーいいですよ・・・。
最近ミーティングする機会が多いのですが以下のことで悩んでいます。グループミーティングは一定以上の能力や知識がある者同士でやる場合には大きな成果が上がると思いますが、能力に大きな差がある者同士がする場合、能力の高いものに依存してしまう傾向があるのです。私の悩みは後者です。。。また多数決での判断をする場合の判断基準がバラバラです。ある者は楽しくするためにはÅだと言っても、ある者は役に立つのはBだと言ったりします。ミーティングの目的や判断基準の意識統一と、個々の能力のレベルアップがグループミーティングする上で大切だなぁと痛感しています。
仕事で公園の設計をしています。
現在,市民や地域住民の意見を聞きながら
公園の再整備計画をつくっています。
市民との話し合いの機会を繰り返し開催しているので
すが,
「今日の雑学」のパラドックスと同じようなことを感
じています。
うちの会社では「物議を醸すようなものでなければ本
当にいいものではない」
というようなことも言っています。
そういう意味では民主的な意志決定は必要ですが,
合意形成ってものはかならずしも必要ではないのかも
しれない・・とも思います。
デザインが決まるときとか
サッカーで点が入るときもそうかもしれませんけど,
いろんな考え,いろんな人が入り乱れている
カオスの中から,結果が突然うまれてくるような
気がします。
こんなこと市民に聞かれたら怒られるかなぁ。
A>B、C>A だから、Cじゃなく、
A>B,C>A じゃぁ、C>B? を考えればいいんですよね?
きっとC<Bになって、困っちゃうんです。
C>Bでも、多数決に潜在する問題は別のものですが・・・
3人寄れば「文殊の知恵」並みになるのは何かと考えると、発想の多様性かもしれません。
ところがその3人の合議で物事を進めていく場合、同意を得なくてはなりませんから、お互いの最大公約数で話をする必要がでてきます。ですが、そうするとせっかくの多様性が失われる訳で。合議性⇔多様性なのでしょうか。
できる事なら、多様性が失われない範囲でインフラ整備したい所ですが、人間同士ではそうゆうわけにもいきませんし。
3人とは全く無関係の10人(程度)に合議は任せて、アイデアの「発想」担当と「選択」担当を分ける事にすれば….まあ、根本的な解決にはなりませんね(^^)
松本秀人 様 あなたは 正しい。