モーニング娘。の「恋のダンスサイト」がアラビア音階だと話題になったのは何年か前だったか。アラビア音階といっても100以上あるというから、ここではアラビア音階風というくらいの表現にしておこうか。
家にオルガンが置いてあって、もうすぐ5歳になる長男もよくそれを弾いている。「ウルトラセブンの終わりの歌」とか言って適当に弾いているのだけれど、考えてみれば彼の創造性も、しぜん鍵盤の世界に添ったものになる。世界には西洋音階と違った音階もあるわけで、たとえば琉球音階をピアノで弾くならドミファソシド、都節音階は左から弾くときはミファラシレミ、右からならミドシラファミになるとか。そんな鍵盤なら、彼はどんな音楽を奏でるのだろう。
そういえばオルガンを使っている以上、どうしたって弾けない音もある。アラビア音階がそうだし、琴で出る音だってそうだ。そういう意味では、なにかひとつの楽器を選びとったとき、ぼくたちは濃密な音世界を、ある基準で切って選びとっていることになる。もちろん、だから何かを捨てているという意味ではなく、音楽が単音ではなくつながりでできている以上、わが子に琴を持たせれば、それはそれなりの「ウルトラセブンの終わりの歌」が生まれるのではあろう。
ちなみに、それは言葉にも言えることで、同じ透明な液体を「water」と一表現でまかなう言語もあれば、「水」と「湯」に分ける言語もある。いや、同じ日本語でも、ぼくにとって「コラム」という単語は自らも書く意味を含んだ単語だけれど、あなたにとっては主に読むものという単語かもしれず、受け取るイメージはやはりずれている。
そのずれは結局その人が生きてきた積み重ねそのものだ。そういう、少しずつずれた言葉を用いながら、ぼくたちは自分の生きてきた積み重ねと相手が生きてきた積み重ねを交換している。人と会話をしていて、ぼくはときどきそんな思いに、心を震わせていることがある。
「音階」が参考になります。また、音楽学の山口修教授による「弦が奏でる心の音色」もどうぞ。なお、後半の言葉に対するとらえ方は、やはりソシュール言語学以降の思想に触れるとより深まりますね。ぼくは『言葉と無意識』などをはじめとした丸山圭三郎さんの思想に影響を受けた部分が大きいです。
ホヤ、ウニ、ミツバチ、カイコなどゲノム解読計画続々(朝日2月9日)。京都内でも地域ごとに京都弁に差(日経1月3日)。先斗町はポルトガル語(朝日8月13日)? 5億年前から生息しているウミユリ(日経1月9日)。犬語は万国共通(朝日11月28日)。日本で初めて缶詰が商業生産されたのは1877年(日経7月31日)。アフリカの原人、170万年前には東南アジアに到達(日経9月22日)。内にためた怒り、高血圧に悪い(朝日1月24日)。食物繊維、大腸がんには効果なし(朝日10月2日)。バナナ輸入の自由化は1963年(日経3月5日)。
音階にも平均律と純正律があります。同じドレミファソラシドでも、音の高さが微妙に違うのです。それぞれの単語でキーワード検索すると、詳しいサイトが見つかります。参考まで。
みおくさんのおっしゃるとおり12音の音階にもいろいろと種類がありますが、こと平均律が面白いのは「どの調でも使えるようにしたため、どの調でも正しく響かない」という点でしょう。
たぶん一人ひとり違うドレミファソラシドをもってるんですよね。
人の数だけ、ドレミの音階があって、
でもハーモニーになったときにはそれがうまく共鳴して倍音を出して
その結果人を感動させるんだから、
音って不思議です。
私個人はラジオの朗読が大好きなのですが、
あれもその朗読者の声の醸し出すハーモニーに聞きほれてるんですよね。
テレビではなかなか味わえない、クラシック音楽を聴いているときの気分です。
ちなみに「シャープとフラットは違う音だ」といわれています。
「どの調でも使えるようにしたため、どの調でも正しく響かない」と↑にありますが、
まったくその通りで、その微妙さの中に醍醐味を感じます。
言葉の話、とっても納得です。その人の言葉はその人にとって歴史であり身体であると思います。
これからも、雑学コラム頑張ってください。
音楽を音階で示すのは大変難しいようです。
古賀政男の楽譜には細かな表現が書き加えられているそうです。音程を揺らしたり、フェードさせたり、ファルセットに切り替える事が指示されているそうです。ガムランなどの場合だと達人は無限に近い倍音発生のコントロールもできるようですし。
難しいのは言葉で感情表現するのと同じですよね。
べつうに無し