人類はアフリカで生まれ、世界に広がった。そう唱えるのが、クリス・ストリンガーを旗手とする「出アフリカ」説。これに対抗するのが、人類は各地域でそれぞれに進化したという「多地域進化」説だ。DNA解析の結果などもあり、現在では出アフリカ説が優勢になっている。
われわれ東アジアの新人はどうだろう。じつは長く疑問が残っていたのだけれど、ジャワ原人の頭骨の進化を新発見の化石をふまえてシミュレートしたところ、ぼくたち新人とは別の、独自の進化を遂げたことが解明されたという。国立科学博物館などがインドネシアと共同で行っていたもので、これで東アジアのホモ・サピエンスも、ルーツをジャワ原人ではなく、アフリカに求めることになる。
そのジャワ原人だけど、もとをたどれば、およそ200万年前にアフリカで進化したホモ・エレクトス。そう、出アフリカはただ一度ではなく、少なくとも旧人時代のホモ・エレクトスとぼくたち新人であるホモ・サピエンス、二度は行われている。
昨年は出アフリカ説にも転機があった。脳の小さい原人の化石が旧ソ連のグルジア共和国で見つかったことで、大脳が発達して知能を得てからアフリカを出たという説が揺らいだのだ。700万年前のトゥーマイ猿人の化石も、人類発祥の地から2500キロも離れた地で見つかっている。なんだか人類はみな、発祥の地を離れるのに駆け足だった様子。出アフリカも、何度も繰り返されたかもしれない。
それにしてもなぜ、人類はアフリカを離れたのか。人類学のウィリアム・レナード博士は、肉食をはじめたことで、草食と比べ広い縄張りが必要になり、活動範囲を広げたと推測している。なるほど、そうなのかもしれない。ただ、アフリカからの遠い道を思うとき、ふと、理由などない、外を目指すことは、ぼくたちが生きていくことと同義じゃないかと、そんなことも思う。そしてきっとぼくたちは再び立ち上がり、宇宙へ向かうのだろうと。
ストリンガー教授の著書に『出アフリカ記 人類の起源』があります。その訳者のサイト「河合信和の人類学」がおすすめ。「進化研究と社会」もよいですね。コラムの中で紹介した研究は「馬場悠男教授」によるもの。「自然科学入門」の第6回もご参考に。なお、関連した過去のコラムには「ルーツ [2001.06.01] 」「脳の大きさ [2002.08.08] 」があります。
あ、しまった、ホモ・エレクトスは「旧人」ではなく「原人」です。人類の種については、次回もういちどまとめます。
「外を目指すことは、ぼくたちが生きていくことと同義じゃないかと、そんなことも思う。そしてきっとぼくたちは再び立ち上がり、宇宙へ向かうのだろうと」
という言葉には、目からウロコです。
ほんとにそのような気がします。
いや、そうあって欲しい。
人間は、常に新天地を求めて欲しい。
科学にも、心にも、場所にも!
私は「文化人類学」に対抗して(?)「蛮化人類学」を、畢生のテーマとして、インターネットの掲示板に投稿しています。
「蛮化人類学」について書いておきます。どうぞ存分にお笑いください。
◎とりあえず「蛮化」の定義なんぞ
(1)文化が開けないこと、むしろ退化していること。またその人民。また、その国。
(2)死者を哀悼する詩歌。挽歌とも言う。
◎ 「蛮化人類学」設立の趣旨
「文化」とは
(1)世の中が進歩し文明になること。
(2)文徳で民を教え導くこと。
(3)人間が学習によって社会から習得した生活の仕方の総称。 (広辞苑より )
現在の「ヒト」はどれを取っても該当しない。
外交、紛争、政治、経済、金融、どれ一つサルの社会より進んでいるとは思えない。
ヒトはサルと共通の祖先を持つが、「何故かくもサルに劣るようになったのか」。
その辺を謙虚に反省し、今からでも遅くは無い、サルに出来るだけ追いつきたいと思います。
ヒトは「遺伝子」の乗り物である「個体」の「本能」が壊れているのですが、それを補うはずの「文化」までが、「退化」しているのが、ヒトの現状なのです。
遺伝子が嵐の海で「翻弄」されているのです。ああ、可哀想なヒトの遺伝子!
未知への期待!
それが生命の基本かなと。