健康を別の側面から振り返ろうと『日本人の病気観』(大貫恵美子著)を読み返す。1985年刊と古い本だが、逆にそのことでいま新鮮に響く。
たとえばこのような記述がある。
「多くの日本人はかつて、また今日でも比較的少なくなったとはいえ、外出時に(特に冬には)マスクをかける習慣をもっている。」
当時の記憶は薄れている。マスク習慣は花粉症やPM2.5対策で定着したものと考えてしまっていた。実際は昭和時代に定着していたのだ。
平成を迎える頃に少なくなったものの、今述べたような新しい需要や2009年の新型インフルエンザのような事態もあって、廃れることなく続いてきた。
なぜ日本人はマスク習慣を受け入れたのか。
大貫氏は日本人の「ばい菌観」を指摘する。日本人は外を不潔な場と考えており、清潔な家内と分けて考えてきた。家に帰ったらうがい手洗いを励行し、ばい菌を室内に持ち上がらないという考えを持っていたと。
そういえば幼少期、たらいで足を洗ってから家にあがっていた。現在の新型コロナウイルスは靴底にも付着といった話があるから、日本人の習慣が今に生きているところも大きいかもしれない。
「病気」と「疾病」を分けて考える必要があるという指摘も示唆に富む。ここでは大貫氏の定義を離れて、人類学のアラン・ヤングによる定義をひこう。
一般的に「病気(sickness)」は「疾病(disease)」と「病い(illness)」から構成されている。「疾病」は生医学的に定義され、治療(curing)の対象になる。「病い」はふつうの人が病気と感じている概念で、こちらを治すのは癒し(healing)だ。
ふたつはまったく重なるわけではない。
疾病なのに病いと感じないズレがある。今で言えば健康と思っているのに感染している状態などだろう。より深刻なのは、疾病では無いのに病いととらえられる状態。問題が無いのに病気扱い、これがいわば偏見を生む。
ふたつの概念のずれに、社会の不健康が潜んでいる。それに効くクスリは、われわれ自身がそのことに自覚的であることだろう。
ステイホーム。キープシンキング。
靴底でのコロナウィルス検出については「新型コロナ、病棟の床や靴底、患者から4mの空気からも検出」に分かりやすく紹介されていますが、「Aerosol and Surface Distribution of Severe Acute Respiratory Syndrome Coronavirus 2 in Hospital Wards, Wuhan, China, 2020」がそれです。
ただ、「新型コロナウイルス感染症に対する感染管理」にあるように、だからと言って施設等で特別な消毒をする必要はない、というのが国立感染症研究所の見解です。ぼくなんてなんとなく、畜舎や酒蔵等に入退室の際に靴底を消毒する状況を思い出しましたけれども。
アラン・ヤングの病気観については、「The Anthropology of Illness and Sickness」でどうぞ。英語版ですが、途中にある図式にあらわされているのが、コラムで紹介したものです。