ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか

2008年6月09日 【雑学な本棚
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 おもしろいテーマをとりあげている。もう少し文章が流れていればよかったなあ。
 副題は問いかける。
 投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか。
 答えを一言で表現するなら、こうだろうか。
 人間とはそういうものだから。
 もちろん、これでは不十分だから、それを裏付ける事例を、ひろい範囲から拾いつつ、紹介している。世の中とは合理的だと思っていた人にとっては特に、目からウロコの話が多いのじゃないか。
 第二版への謝辞で、タレブはカーネマンについて高く評価している。引用しよう。
 並外れて重要な疑問に対しての彼の仕事が大きな意味を持つからだ。つまり、(a)彼とエイモス・トヴァスキーは、ギリシャ時代の教条的な合理主義に始まって、その後23世紀の間私たちが持ち続けた人間観をひっくり返した。(中略)(b)カーネマンの重要な仕事は、(さまざまな段階の)効用に関する理論で、幸せなどの重要な問題に大きな意義を持つ。
 ここにタレブの姿勢が表れている。
 考えてみれば、ぼくも「ざつがく・どっと・こむ」を通して、同じことを繰り返してきた。カーネマンをとりあげた回としても、「しあわせですか」「幸運の確率」「常識を疑え」があり、それぞれのコラムのタイトルからもわかるように、ぼく自身、カーネマン理論の、幸福についての示唆や、合理主義に基づく常識をひっくり返すところを評価していることがわかる。
 ほかにも、「バスを待つ」や「なぜに嫌う」にとりあげたバイアスの問題や、「リスクとヒューリスティック」でとりあげたリスク、あるいはヒューリスティックの問題。
 もしかすると、ぼく自身が、投資という視点からではなく、より広い視点から書きたかった本かもしれない。
 投資って運。そうなんだけど、そこに重点があるわけでない。
 投資ということに限らず、ぜひ広い視点で人生をとらえてほしい。
 人間を、人生を見る視点を養う。
 そのための一助となる書籍ではある。

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2 comments to...
“まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか”
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望月

いや、まるっきり逆ですね。喋っても書いてもあのごつごつした語り口こそがタレブです。流れたんじゃああも(原文の話ね)面白くならないですよ。


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小橋昭彦

望月さん、ありがとうございます。
なるほど、そうか、そのようにとらえればいいのですね。大江健三郎さんの作品が好きなのですが、大江さんの文章が流れるようなものだったら、大江さんじゃない。
タレブの文章も持ち味。なるほど。




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English : PRESS
Is the smell of almonds closer to that of roses or bananas? Weizmann Institute scientists have now answered that question (roses) by showing for the first time that smells can be mapped and the relative distance between various odors determined.
音程と違って香りって「この香りとこの香りは近い」って言いづらかったんだけど、マップを作りましたって。

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 すべては戻ってきたハープから始まった。
 カリフォルニア大学心理学部助教授による、超能力についての探求の旅。科学者にとって、超能力を研究することはある意味とても危険なことだ。「アッチの人になった」と学会から無視されかねない。
 それでも彼女が超能力に関連する情報を集め始めたのには、理由がある。戻ってきたハープだ。
 盗まれた娘のハープを探していた著者は、友人から紹介されて、ダウザーに尋ねることになった。ダウジングとは、二股に分かれた棒を手に、地下水や鉱脈をさぐりあてる、あれである。
 もちろん、著者だって信じていたわけではない。娘が大切にしていたものだったから、できることはなんでもやっておこう、という程度。
 ところが、アーカンソー州に住んでいたダウザーは、送られてきた地図をもとに、オークランドにある住宅を探せと、アドバイスする。
 そして、ハープは見つかった。
 これは何なのか、と著者であるメイヤーは思う。
 およそ信じがたい。しかし、事実としてハープは見つかった。
 この、信じがたいという思いと、事実との間をつなごうと、著者は苦心する。彼女が優れているのは、どちらの立場が正しいのかと問うのではなく、なぜ多くの人がまず「信じがたい」と思うのか、と問うているところだ。心理学者の面目躍如といったところ。
 とりあげる超能力には各種ある。
 透視。テレパシー。メイヤーは、全面的な肯定からうさんくさい議論を展開するわけではない。かといってトリックを見破ろうと全面否定の態度で取り組むわけでもない。
 絶えず疑いつつ、発見された事実を拾い上げ、やはりなおかつ、それらは実在すると結論する。
 科学者としての良心にあふれた著書だ。
 同時に、メイヤーは問いかける。
 われわれは、科学の眼だけで世の中を見ることができるのだろうかと。
 透視やテレパシーについて知るためには、別の見方をしなくてはいけないのではないか。ルビンの壷(見つめあった人の横顔にも壷にも見える隠し絵)のように、どちらかの視線でみていると、もう一方は見えない。どちらもを同時に見ることはできない、そのように、科学の眼から見ていては見えないものが、世の中にあるのではないか。
 この問いは重い。
 そして、この問いを乗り越えないことには、将来にわたって、「透視」や「テレパシー」が実在することは、無いのではないか。科学的な見方が絶対だとされているうちは、決して見えない世界があるのではないか。
 いま、透視やテレパシー、あるいは気功を「科学的」に説明しようとする立場がある。しかし、科学的に説明することがゴールなのか。
 たとえば、「ゾーンに入る」という表現がある。投手が投げた球が止まってみえる、といったように、ある種の究極の集中状態。そういう状態になったとき、最高のパフォーマンスが引き出せると考えるプロ選手は少なくないようだ。
 だけどそれを科学的に説明することは、できない。だからといって、そんなことありえないと結論付けることもできない。
 ぼくたちが科学的に説明しようとするのは、科学的であることが知識の共有や再現性の確保、検証などに欠かせないからだ。
 要するに、科学的な姿勢とは、コミュニケーションのための言語のひとつ。言葉にないものまでは、語れない。
 科学的に語れることがゴールではなく、科学とは違う言葉を探し出すことが、人類にとってのゴールかもしれない。
 そのことを、教えてくれる本。

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