ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

勉強できないのはワーキングメモリーのせい

2008年2月29日 【雑学なメモ
Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn
Children’s under-achievement could be down to poor working memory
The researchers from Durham University, who surveyed over three thousand children, found that ten per cent of school children across all age ranges suffer from poor working memory seriously affecting their learning. Nationally, this equates to almost half a million children in primary education alone being affected.
However, the researchers identified that poor working memory is rarely identified by teachers, who often describe children with this problem as inattentive or as having lower levels of intelligence.

学校での勉強ができないと、授業態度のせいとか、知能のせいにしてしまいがちだけれど、ワーキングメモリが少ないせいではないかという。
一時記憶がはたらきづらいため、内容についていけていない。仮にこれがほんとうだとすると、おちこぼれないための勉強の方法も、違った視点から考えられるはず。

Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn



required



required - won't be displayed


Your Comment:

Association for Psychological Science: Psychological Science – March 2008
In conclusion, preschoolers share the propensity of adults for particularly rapid visual
detection of snakes. The existence of this tendency in such young children lends important
Psychological Science ? March 2008 ? In Press
support to theories positing the existence in humans of an evolved bias for the detection of
evolutionarily […]

前の記事

 竹内久美子サンは、利己的な遺伝子の見方から、生物行動のユニークな解説書を書いてきた人(たとえば「茶髪か黒髪か」を書いた時に紹介した、『BC!な話』など)。
 その竹内サンが「透視は、あっても不思議はない」と言い切っている。
 こういうことだ。
 1909(明治42)年、東京帝大の助教授、福来友吉は、人体内部を透視し、医師の診断の手伝いをしていた御船千鶴子の存在を知る。彼はさっそくいくつかの実験を行い、千鶴子の透視が本物であると確信する。
 そこで彼は、熊本にいた千鶴子を東京まで呼び、当代随一の学者たちの前で実験する。しかしこのとき、神経質な千鶴子を思いやって、お守り用の鉛菅(実験で透視する文書などを封印するときに利用する鉛菅と同じもの)を渡したことが誤解を生み、実験対象の鉛菅の中身を透視する際に混乱が生じた(実際には透視そのものは成功)。その結果、新聞などが千鶴子をバッシング。心労の重なった彼女は自殺してしまう。
 彼女は、同じ学者たちの前で後日実験を成功させ、それが透視であると誰もが認めたのだが、千鶴子バッシングの風潮と、近代化に「迷信」は不要とする世の流れには逆らえず、学者の多くは保身に走り、福来も大学を辞めさせられる(詳しくは『透視も念写も事実である』)。
 こうして、日本の超能力研究は葬り去られた。
 もしもこのとき、学者らが正面からこの問題に取り組み、その伝統が今に続いていれば、ぼくたちの科学観はもっと豊かになっていたのではなかったか。そんな思いがぬぐえない。
 気、東洋医学などの伝統を持つ日本は、あるいはまったく違った科学を育て、地球環境に対する立場でも、独特の貢献ができていたかもしれない。
 犬の目を見て「仲良くしよう」と念じると、犬は喜んで尻尾を振る。しかしそれは言葉を介しないコミュニケーションであって、本来的なテレパシーではない。
 ミツバチには紫外線が見える。でもこれは視覚の特徴であって透視ではない。
 犬も、ミツバチも、もし「迷信」と考えてしまったら、彼らのコミュニケーション能力や視覚を科学することはなかったかもしれない。
 本書の副題は、あるいはそんな思いでつけられたか。「変な学術研究 1―光るウサギ、火星人のおなら、叫ぶ冷蔵庫」でとりあげたときと同じ換喩だが、透視そのものは、本書の代表的なトピックではない。
 むしろ本書には、生物学的に、竹内サン的に、もっともっとおもしろい話が並んでいる(読者からの質問に答える雑誌連載を採録したものだ)。
 おとなしい人が突然暴力をふるうのはなぜか。人間とゴリラの間に子どもは生まれるか。子どもが少なくなるとおっぱいの数も少なくなるのか。耳の形と性格に関係はあるのか。花弁の数と指の数に進化上の相似はあるのか。
 などなど、50以上。
 
 どうでもいいと、見過ごしてしまうこともできる。しかしそのときあなたは、これだけ豊かでおもしろい生物学への扉を、くぐることが無いまま終わってしまう。
 副題は、あるいはそのことを暗示しているのかもしれない。

次の記事