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ちょっと知的な雑学&トリビア

ハエ以上、イネ以下

2001年4月05日 【コラム
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 遠足の前の日、200円を手に友だちと連れだって学校近くの駄菓子屋へ。上限とされるその金額以内で、どんなお菓子を揃えるかが楽しみだった。
 人間の遺伝子の数がおよそ3万個と、これまでの10万個という予想より少ないことが話題になったのが2月のこと。10万個というのは体内で働くたんぱく質の数で、これまでは一個の遺伝子が一個のたんぱく質を作ると考えられていたのが覆された形。ひとつの遺伝子から複数のたんぱく質をやりくりしていたわけだ。
 ショウジョウバエの遺伝子数が約1万4000なので、おれたちはハエの倍しかないんだよな、なんて酒場で語り合った人も多かったんじゃないだろうか。大腸菌が4300、その10倍もない。いや、それをいうなら、マウスは人間と同じくらいの遺伝子数を持つし、フグだってそうだ。
 農業生物資源研究所などの研究チームが、イネゲノムの解読に取り組んでいる。最近明らかになった、12本ある染色体のうち第1染色体の遺伝子数は、約7000という。イネ全体に単純換算すると6万から7万個(日経3月29日)。この調子なら、人間よりイネの遺伝子のほうが多いことになりそうだ。
 ぼくたちより多くの遺伝子を持ったいのちが田ですくすくと育っている、というのはなんだか愉快。その間をゆく昆虫や水の中の魚たちも、それほどきょくたんに遺伝子数が変わるはずもなく、つまりはみんな同じ仲間。
 リュックから自分たちが選んだお菓子を取り出し自慢しあう遠足のひととき。上限が2000円と言われていたら、あの楽しさはなかったろうな。数じゃないんだ、たいせつなのは。

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2 comments to...
“ハエ以上、イネ以下”
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小橋

遺伝子については、3月28日のコラム「がらくたDNA」とその参照サイトもどうぞ。イネゲノムについては、「農業生物資源研究所のリリース」をご覧ください。最近の書籍としては、『ゲノムが語る23の物語』がおもしろいです。


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小橋

今日の没ネタ。花粉症がGDPに与える影響も無視できない(日経3月11日)。世界各国、人気番組いろいろ(朝日3月10日)。顔の本質は目(朝日3月11日)。




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 日本に初めてポストが設置されたのは1971(明治4)年のことだ。名称は一定ではなく、書状集め箱などと呼ばれたりしていたという。翌年には角柱型の木製ポストが登場。黒塗りで、表に大きく「郵便箱」。これをはじめてみた人が「たれべん」とよんで公衆便所と勘違いしたという逸話も残る。 ポストと呼ばれるようになったのは、POSTの文字が投函口に書かれていたから。ちなみに海外ではフランスでは1653年に、イギリスでは1852年に登場。 ポストが鉄製になるのは1901(明治34)年のことで、すぐ赤色のものもつくられ、1908年から、正式に丸型の鉄製赤色と制定される。それまでは緑色に塗られたものなどもあったらしい(朝日3月10日)。 現在見られるような、角型のポストが見られるようになるのは、1950年代のこと。郵便物の増加に対応してのことだけれど、形のうえでは先祖がえりともいえる。丸型のポストは現在でも約6000個が現役として残る。 各地にはそれぞれの土地柄をうつしたポストや記念等のポストもあるけれど、正式なポストはその形状を公示されることになっており、現在は14号までの14種類。 ポストの正式名称は「郵便差出箱」という。「差し出す」は郵便局に対してか相手に対してか。相手にとすれば、その言葉のやさしさにあらためて気づかされる。電子メールを差し出す、なんていい方はしなくなった。 いま、郵便差出箱は全国でおよそ17万個。そのそれぞれで、今日も、心をこめて差し出された手紙が、かさっと音とたてて吸い込まれている。

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 フィンセント・ファン・ゴッホの作品に『夜の白い家』という絵がある。最後の数カ月を過ごしたパリ郊外のオーベール・シュル・オワーズの風景を描いたもの。赤い屋根の白い家、その右上にひときわ明るく輝く黄色い星。 この絵の描かれたのが1890年の6月16日、午後7時から8時の間だったことを、米サウスウエスト・テキサス州立大のドナルド・オルソン教授らのグループが明らかにした(朝日3月12日)。人口約5000人というこの町の家々を一軒ずつ訪ねて「白い家」を特定、当時の夜空から黄色い星が金星であることを割り出し、当日が晴れていたことも確かめたもの。 精神を病んでいたゴッホも、オーベールに移って安定をとりもどし、1日1点という旺盛な創作意欲をみせていたころ。拳銃で自分の腹を撃ち人生を終える、1カ月あまり前の絵ということになる。『ひまわり』など、量感あふれる色彩で知られる彼の絵。ぼくにとって印象的なのは、『星月夜』や『夜のカフェテラス』など、ときに同心円を何重にも伴うような、ぎらぎら輝く星だ。 生涯、絵はまったくといっていいほど売れず、情熱や自信をなくしミレーや浮世絵を模写したりもしていた彼。金星の輝きに、彼がなにを見ようとしたのかは知らない。100年あまり前の6月の晴れた日、彼は確かにオーベールにいて、絵筆をとっていた。37歳。ふと気づけば、ぼくもその年齢までほどないのである。

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