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ちょっと知的な雑学&トリビア

脳をコントロールして痛みをおさえる

2005年12月14日 【雑学なメモ

Control over brain activation and pain learned by using real-time functional MRI
If an individual can learn to directly control activation of localized regions within the brain, this approach might provide control over the neurophysiological mechanisms that mediate behavior and cognition and could potentially provide a different route for treating disease.


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 冬の星は圧倒的だ。出先から戻った夜、車から降りて空を見上げはあッと白い息を吐く。ましてやこの時期、早い時間には金星が輝き、おひつじ座に火星が座り、更けては土星がのぼる。ここにオリオンの三つ星やシリウス、すばるらがからむ様子といったら。星座早見盤をきっかけに星をたどりはじめた少年時代、あれが冬でよかった。違う季節なら、その習慣を続けたかどうか。なんて見上げ続けていると、首筋が凝る。1時間でも2時間でも飽きずに見ていたあの頃は、デッキチェアを出して寝転んだっけ。肩をもみつつ、最近そんな話を聞いたと思い出す。
 ダビデ症候群と、報告したグラツィーラ・マゲリーニ博士が命名している。イタリアはフローレンス。ダビデの裸像を見た後、気分が悪くなって病因に担ぎ込まれる人が相次いだ。彼女は、似た事例を70年代にも報告している。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を見学した後、倒れる人が多数いたのだ。文豪スタンダールも同じ症状を訴えていたことから、スタンダール症候群と名づけられた。
 呪いと言われもした。旅の疲れに加え、美しいものをあびるように見たからだと言われもした。もっともらしいのは、大聖堂にせよ、ダビデの像にせよ、じっと見上げて鑑賞する時間が長いため、首の両脇を通る血管が圧迫され、流量が絞られて血栓ができるのではないかという説。「エコノミー症候群」として知られるようになった、旅行血栓症と似たようなものだ。
 実際の理由について、マゲリーニ博士は結論を出していない。美にうたれたという解釈の余地を残しておきたくもある。博士の研究を伝えたある記事は、次のようなエピソードで締めくくられている。美に見慣れたイタリア人とともに、日本人もダビデ症候群にはかからない。だって彼らはよく統率されていて、美的感情にうたれる時間さえないのだからと。いや、日本人は見上げる美が性に合わず、手の中で慈しむ美を好むのだと言い返したくもあるのだが。

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 街角でぶつかった拍子に、相手と自分の意識が入れかわったとしよう。あなたはどう感じるだろう。動かそうとして動く身体が「自分」だし、そのように考える脳に「私」がいる。でも、それは昨日までの「自分」でも「私」でもないと考える<私>がきっと別にいることだろう。そんな<私>という意識は、どうして芽生えたのだろう。
 ベンジャミン・リベット博士による有名な実験がある。被験者の脳の運動準備電位を測りながら、動かしたいと思ったときに指を動かしてもらったものだ。常識的には、意図した後で運動信号が生じ、指が動くと考える。ところが結果は逆。運動準備電位は、動かしたいと意図するより0.35秒早く生じていたのだ。意識する前に脳は指を動かしていた。
 それをふまえると、トップアスリートが、百メートル走のスタート時において「走ろう」と意図する前に身体を動かしているというのも、わかる気がする。号砲を聞いて意図してから踏み切っていては、それだけで2、3メートルの差がついてしまう計算だ。
 ただこの実験は、ぼくたちが、自分の身体を意識して動かしていると考えているのは幻想だということを暗示してもいる。身体は無意識のうちに動いていて、「意識」はそれを0.35秒遅れで追認しているだけというのだから。ロボット工学の前野隆司氏はこれらをふまえ、「受動意識仮説」を展開している。意識はトップダウンで自分を支配しているのではなく、受動的に生じると。
 条件反射のように瞬間を生きている生物と、昨日はこれをしたと記憶できる生物では、後者の方が有利だ。こうした記憶は、数々の経験のなかで、昨日と今日の「私」をつないでおいてこそ可能になる。それが<私>という意識だと考える。支配者ではなく、現象をつなぐための<私>。それはある意味、ちっぽけかもしれない。でも、この地球上に何十億通りもの<私>があって、それぞれの瞬間を昨日から今日へ、明日へとつないでいると考えると、きらきらして愛しくもある。

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