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ちょっと知的な雑学&トリビア

健康ということ

2005年6月23日 【コラム
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 健康に気をつかうのは、あたりまえなのだろうか。健康観の変遷を振り返りつつ、そんな疑問が頭をもたげてきた。健康という言葉が日本に根付いたのは明治になってからのこと。衛生観が根付いたいきさつは以前のコラムで書いたけれど、健康についても並行する形で、翻訳語として定着していった。
 江戸時代に似た概念がなかったわけではない。貝原益軒『養生訓』にある、養生という言葉がそれだ。ただ、養生という言葉の背景にあるのは、私欲を抑えて孝行につとめようといった考え方で、つまり人間は生まれつき父母から授かった身があるわけで、天の理に従えば天寿をまっとうできるとするわけだ。ところが健康はそうじゃない。むしろ強くなりたいといった私欲を肯定し、それを追及することが公益につながると考える。
 ややこしいのはそれを国家が推進した点で、明治以降、コレラ対策や富国強兵などの要請から国家がある意味「健康」を強制した。その構図は、医療費抑制などの必要性から国が健康対策を進める現代もそれほど変わらないのかもしれない。ただし今では、テレビや雑誌の影響の方が強い気はするけれど。
 悲劇的なのは、そうして不安をあおられつつも、あなたは健康だと証明してくれる人がどこにもいないことだ。夏の甲子園大会に出場するために必要な健康証明書の文面を調べた上杉正幸氏は、1970年代にそれまでの「野球競技に耐えられる」から「健康診断の時点では異常がなかった」に証明内容が変わったと報告している。医師でさえ、証明できるのはある一時点の検査の範囲内での異常の不在であり、その後の健康な生活ではない。
 健康づくりなんて言葉が一般化している状況を考えると、現代においてぼくたちは、自分の身体は普通に暮らしていると不健康になると感じているのだろう。それは養生の時代からはずいぶん遠く、それを思うとき、あるいは不健康なのはぼくたち個人ではなく、社会ではないかという思いを禁じえない。

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8 comments to...
“健康ということ”
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小橋昭彦

衛生観については「衛生展覧会 [2003.11.03]」をご参照ください。

参考書、いろいろあるのですが、『健康不安の社会学』がお薦め。その他、『健康観にみる近代』や『「健康」の日本史』など。


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よう

今の時代、「普通に生きていく」と
随分と不健康になってしまうような気がします。
いっそ田舎の山にこもって晴耕雨読、自給自足の
生活をしようなどと思うと
「普通に生きていない」
そう言われてしまうでしょう。
社会が不健康だと言う事に深く共感します。

昨年、年一回の健康診断で血糖値が高いと指摘されまして
「健康」という事に事の外、気を使うようになって来ました。
お酒を減らしたり食べる物を選んでみたり・・
食べたい物を食べたいだけ食べられない事は
健康では無いという事なのでしょう。


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ふいかな

あるがままを受け止める養生から、積極的に獲得する健康へと言う考え方は、時代によって人為的に変わっていった事がとても興味深かったです。

さて、現代の健康の早道は?
私の持論ですが「育児です」
「好き嫌い無く食べなさい」と言うために自分も。
食事もバランス良く考えて作るのも
自分の為ではなく子供のために。
公園遊び、地域の掃除、
運動会、ハイキング
子供がいなかったら参加しないであろう
健康的な催し。。。
会社と家の往復では味気ない毎日が
子供と地域によって活性化されていると思います。
ぜひ、日頃残業続きで休日ゴロゴロしている
お父さんたちに勧めたいです。

自然と健康がついてくると思います。


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2bro2b

金魚鉢の水が汚くなっては金魚は健康になれない。


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みうらん

「健康」が今も国策であるというのは、その通りだと思います。
覚醒剤の禁止も、個人を守るためではなく、国を守るためなのでしょうね。


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けん

数年前に病を患い、約1ヶ月の入院生活を送りました。
病気にならないと健康のありがたさが判らないなんて
話はこっちに置いといて。
毎日病院の窓から見える外の景色が新鮮で、あんなに
外に出たいと思ったのはその時が初めてでした。
退院してからは健康に気を付けるなんて直ぐに忘れて
それまで通りの生活を送ってしまう毎日ですが、病気
で閉じ込められるのは2度と嫌だなと・・・思い出し
ました。

宇宙船には乗れないなぁ。


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こま

みうらんさん、その通りです。

お久しぶりに投稿します。
緑茶の有効成分は?トマトの有効成分は?
トウガラシの有効成分は?・・・
こんな質問に対して即答できる人が
いたるところにいる国って変じゃありませんか?
国民総健康オタク。

化粧文化研究の専門の立場としましても
美と健康と若さがいまガッチリと結びついていますが
その原点は明治政府の衛生政策です。
これが今では(ある程度)外見がよくなければ
職場でも学校でもどこの世界でも生きていけない
そんな時代にまで行き着いてしまいました。

人間の美の研究をするためには
健康観の研究が欠かせないために
ここ数年こんなことをしています。


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tom

昔、TV番組で『おばさんの定義』というのが有った。
女性が集まって話しているとき、健康に関する話題が
多くなったら『おばさん』だというのだ。
私は男だが、確かにある時点までは『健康』について
意識をしていなかったと思う。
年のせいなのか、時代の流れなのか。

私の友人(中国人)がこんな事を言っていました。
『人間は若いときは健康を犠牲にしてお金を稼ぐ、そして年をとると、お金を使って健康を買う。(結局はチャラ)。』




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 都道府県を組み合わせるパズルを子どもとしながら、なんとはなしにウェゲナーのことを思い出していたのだった。南アメリカとアフリカの海岸線が似ていることからかつてはくっついていたと考え、インドのゴンド民族の土地で発見した氷河によるこすり跡などをもとに論証した気象学者だ。およそ3億年前の、いわゆるゴンドワナ超大陸。 ウェゲナーは他にも古生物などの証拠を揃え、1912年に論文を発表している。ただ、それがすぐに認められたわけではなく、注目されるようになったのは、1950年代になって地磁気の研究が進んでから。岩石ができるとき、地磁気の強さと向きが痕跡として閉じ込められる。各地の痕跡を調べると、かつて同じ大陸だったものが移動したと考えるとつじつまがあう。その後、海底断層の研究などが積み重ねられ、プレート・テクトニクス理論として結晶する。地表はいくつかの移動するプレートから成るとする理論だ。 超大陸はゴンドワナだけではない。およそ27億年前に大陸が誕生して以来、19億年前の超大陸ヌーナをはじめ、2億3000万年前の超大陸パンゲアなど、何度かくっついたり離れたりしている。そのたびに生命は大きな影響を受けた。パンゲアとともにあった超海洋パンサラッサは、ひとつであったがゆえに生命の一様さにつながりその後の大量絶滅の要因となった、9000万年前のローラシア超大陸はしばしば浅い海で分断されたゆえに恐竜の多様性を生んだ、といった説もある。 プレート・テクトニクスを習ったときの驚きは以前も書いた。何億年も前に存在した超大陸が、氷河のこすり跡や磁気、巨大山脈の痕跡などを通して、現在のぼくたちに語りかける。プレート・テクトニクスは、地震や火山、山脈の形成などをすっきりと説明しつつ、生命の起源の場ともされる海底の熱水鉱床のように、新しい知の扉を開いてもくれる。プラトンが書き残したアトランティス伝説やムー大陸の謎も悪くないけれど、ぼくはこのリアルで壮大な物語に惹かれる。

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 リアルとまぼろしの境界。ノースウエスタン大学の研究者らが昨年発表したひとつの実験結果がある。被験者に磁気共鳴画像装置に入ってもらい、単語リストを見せながら、それぞれの単語が表すものを思い描いてもらったもの。なかには実際にその写真を見せる単語と、想像だけしてもらう単語がある。その後、写真を見たかどうかを答えてもらう。 以前紹介した、誤った記憶の実験を覚えていらっしゃるだろうか。事故の映像を見せた後、ガラスは割れていたかと聞くと、「衝突したとき」と聞くより「激突したとき」と聞いたときの方が「割れていた」と誤った答えをする人が多かったというものだ。人の記憶は、たやすく組み変わる。今回の実験でも、被験者は写真を見たと誤って答えたケースがあった。そして誤って記憶していた事例では、実際にイメージを作り出すのに関わる脳の領域が活性化していたのだ。つまり、脳にとっては、誤って写真を見たと記憶している単語も、実際に見た単語も、この時点では変わりがない。 関連して思い出した話にミラーニューロンがある。サルでの観察結果をもとにリゾラッティらが1996年に発見したもので、バナナの皮をむくなど、ある行動をサルが見ているときに活性化する。おもしろいのは、実際に自分がバナナの皮をむくときにも、同じ箇所が活性化していること。つまり、自分が実際に行った行為と観察だけした行為が、ミラーニューロンで重なっている。 誤った記憶やミラーニューロンのことを思うとき、ぼくはいつも想像力の偉大さに畏怖の念を抱く。アスリートがイメージトレーニングを行うとき、彼・彼女はまさにその競技を「リアルに」体験しているのだろう。ならば他者の記憶違いを単純に責められるだろうか。正しい過去というまぼろしを追うより、これからどうするかに目を向けたほうが有意義な場合もある。アスリートがイメージトレーニングのあと立つリアルなフィールドに、人生をかけるように。

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