ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

自尊心

2005年5月26日 【コラム
Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

 反省という言葉を覚えたのはいつだったろう。授業で反省文を書く課題があり、そのときに言葉の意味とともに学んだのだったか。ニスベットの『木を見る西洋人 森を見る東洋人』の一節に「日本の子どもたちは、学校で自己批判のしかたを教えられる」とあるのを読んで、そんな思い出を探りなおしていた。
 一方、米国では自尊心を高めることが教育テーマになっているとニスベットはいう。日経サイエンスに掲載された別の研究者らによる論文を参考にするなら、自尊心を高めれば学業成績があがるし、薬物の乱用や犯罪を防ぐ効果もあると考えられたかららしい。アメリカっておもしろいと流せなかったのは、日本でもこのところプラス思考が必要とよく耳にするからで。論文のタイトルもまさに「前向き志向で成功できるか」である。
 自尊心が低い人は偏見が強いという説がある。偏見を無くすためにも自尊心を高めなくてはいけないと続くのだろうけれど、冷静に考えれば、自分を否定的に評価する人が他者も低く評価するというのは、一貫性があるというだけのことかもしれない。自尊心研究にはこうした因果関係を解明する難しさが伴う。最近の研究では、自尊心を高めても学業や仕事の成績が上がる可能性はあまりないことが分かってきているという。
 もっとも、自尊心が高い人は積極性があるし、人生を幸福に感じる傾向も強いというから、プラス思考に価値がないわけではない。その一方で、反省文だって自分をおとしめるためじゃなく、環境を振り返って戦略を練り直す効果がある。
 荘子に「木鶏(もっけい)」の逸話がある。闘鶏を育てるのに、強さを誇らず状況に動じない、木彫りの鶏のようになってはじめて良しとする。プラス思考ができないからといって自分を責めることは無い。今の自分を認め、その立ち位置でもって、木鶏たるを志す。そんな生き方もまた良しである。

Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

5 comments to...
“自尊心”
Avatar
小橋昭彦

木を見る西洋人 森を見る東洋人』は以前のコラム「キノコ喰いロボット [2005.04.28]」でも取り上げたことがありましたね。

科学誌の論文というのは、日経サイエンス2005年4月号掲載の「前向き思考で成功できるか」です。米国には「全米自尊心協会(National Association for Self-Esteem)」なんてのもあるんですね。


Avatar
tom

意外でした。私は、自尊心が低い人は周りの人を過大評価していて、自尊心の高い人は周囲を過小評価しているのだと思ってました。
自分は自尊心が高い方かどうかを考えてみると、よく分からない。
自分のことはよく分からないものです。


Avatar
しゃあ

以前 何もかもが上手く回っていました。自分は このまま頑張れば 「もっと上を狙える」なんて思っていました。実力も野心も人並以上だと考えておりました。 ただ 世の中がバブルなだけでした。
今は 自分の立っている場所を守っていくのに必死です。そうなるまで 全く回りが見えていませんでした。
どうやら ボクの持っていたのは 「自尊心」ではなく ただの「思い上がり」のようでした。
ここ何年かで やっと他人の気持ちを考えるようになってきたと思います。
tomさんの 言うとおり自分のコトは よく分からないですネ。


Avatar
KENB

自尊心を高めようとはいいますが
何事もバランスだと思いますがね。


Avatar
風太郎

昔、
「prideを持て! しかし、proudにはなるな!」
と教わりました。

仕事に誇りは必要ですが、それがいきすぎてお局様状態になってはいけないと。

いまでも、事あるごとに思い出しています。




required



required - won't be displayed


Your Comment:

 地元集落の隣接地に自動車解体工場が建設されることになり、ごたごたしていたのだった。リサイクル法によって地域への配慮がなされるようになっているとはいえ、何も里山の地にわざわざという思いがある、一方で住民自身、車がないとやっていけない日常を送っている。いわゆるNIMBY問題である。 ニンビー。Not In My Back Yardの略。ゴミ処理場など、地域住民にとって望ましいと思えない公共施設をどう設置するか、という問題だ。NIMBY症候群という呼び方もあり、一時は地域エゴといった否定的なニュアンスを含んでいたようだ。でも、必要性はわかるけどウチの庭にはやめてよ、という感覚は、誰もが共有できるものを持っている。 ではそれをどう解決するのか。地域に負担だけおしつけて自分たちは受益のみを享受する、いわゆるフリーライダーを防ぐことはもちろん重要なポイントのひとつ。もうひとつ重要だと思ったのは、地域内での合意形成のあり方への着目だ。補償金などで地域の願いを汲み取るというだけではなく、そうした意思決定の過程そのものに地域住民の参加を得る。結果より過程の重視。 思い出したのは、ブータンでは国民総生産ではなく、国民総幸福の増大を掲げているという話。同国での指標作りはこれからだけれど、幸福に関する研究をこのところよく目にする。幸福感を生むには、ある程度までの金銭的余裕は必要だが、一定水準を超えると富の増大とは相関しない。選択肢が増えるとむしろ幸福感が減衰するという事実は以前コラムでもとりあげた。政治面からは、ブルーノ・S・フライらが『幸福の政治経済学』で、政治への参加の権利が保証されていることが、幸福感につながっていると指摘している。 思えばごく身近な日常でも、もっとも辛いと感じるのは、自分の声がどこにも届かない、届かせる場さえないというときではなかったか。そこに聞く人がいるということは、それだけで幸福なことなのだ。

前の記事

 できるだけ使わないようにしている、と知人の社会学者が言っていた。それほど便利でなんだか納得した気になってしまうからと。ミームという言葉は、リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』で提唱した用語で、生命のように文化も進化しているとするなら、遺伝子にあたるものがあってもいいとして、それをミームと名づけた。 遺伝というからには、3つの条件を備えていなければならない。第一に、変異によって多様性が生まれること。第二に、それらすべてが生き延びることはできず、選択(淘汰)されること。第三に、それが伝達される過程が存在すること。そう考えるなら、なるほど文化も遺伝する。つねに新しい発想が生まれ、それらの中には広がるものも忘れ去られるものもあり、人から人へ、あるいは書物などを介して模倣され伝わっていく。 生物学で「互酬的利他行動」を唱えたのはトリヴァースだった。他者のために犠牲を払っても、最終的に自分のためになるという理論。親は子に尽くすことで、自分の遺伝子を残す可能性を高めているといった見方ができる。もちろん個々人はそんな打算で行動しているわけじゃないのだけれど、利己的遺伝子の視点で説明するならそう表現できる。 同じことはミームにも言えて、ぼくはときどき便利に使う。ボランティアするのはミームを残すためと考えたり。誰かに助けられたら、その人の話を聞いてみようって気にもなるだろう。人助けをすることで、自分の持つミームを伝える可能性が高まるわけだ。もちろん、そんな説明はなんだか味気ない。味気ないけれど、そう考えておけば、これだけ尽くしているのだからなんて思いが芽生えることもない。むしろ、受け入れてくれたことに感謝する。まあ、要するに古くからあることわざを、ちょっと科学的に言い換えているだけのことなんだけどね。そう、「情けは人のためならず(自分のため)」って。

次の記事