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ちょっと知的な雑学&トリビア

サピア=ウォーフの仮説

2005年5月12日 【コラム
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 パンダ、サル、バナナから仲間二つを選ぶとき、東洋人はサルとバナナを仲間と答える傾向があることを前回紹介した。同じ実験をpanda,monkey,bananaと英語でやるとどうか。いったん母国語に置き換えない程度のバイリンガルな中国人の場合、pandaとmonokeyを選ぶ比率が高くなる。
 ぼくたちの思考様式や行動は、このように言語の影響下にあるのかもしれない。サピア=ウォーフの仮説として知られている考え方だ。ウォーフはその論文で、「現実の世界」は言語習慣の上に形作られるという師エドワード・サピアの言葉を引用している。提唱されて半世紀、支持と反論が続いており、前述の実験をしたリチャード・ニスベットも、言語より育ってきた文化の影響の方が大きい事例もあると報告している。
 カンガルーの語源となる単語を持つというオーストラリアのグーグ・イミディル語を話す人に、左向きの矢印を見せて同じ絵を描いてほしいと頼むと、人によって違う方向の矢印を描くという。右、左という言葉を持たなければ、見せられた絵をたとえば北向きの矢印と理解するわけで、その人が座る向きによって違う方向の矢印を描くことになる。
 一方で、色彩語の研究で有名な米国のポール・ケイは、同じカラーチップを見せたときに、それを2色に分ける言語も12色に分ける言語もあるが、分節の仕方にはある程度のパターンがあることを見出している。たとえ言語が違っても、自然界の色彩の波長配分まで組み変わるわけではない。
 言語は確かに、世界の認知に深く関わっている。言語が違えば考え方が変わるのは事実だろう。しかし、同じヒトとしてこの世界で生きている以上、世界との関わり方にはある種の制約があり、互いにコミュニケーションできないほどに異なることは無い。その、違うけどわかるよね、とでもいった気持ちよさを感じるとき、言語を単に道具としてみることを超えたところにある、サピア=ウォーフ仮説の魅力に気づく。

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5 comments to...
“サピア=ウォーフの仮説”
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小橋昭彦

冒頭、パンダ、サル、バナナの事例は前回コラム「キノコ喰いロボット [2005.04.28]」及びそのときの関連情報をご参照ください。

ウォーフの著書に『言語・思考・現実』があります。ただ、ちょっと難しい。この仮説については最近も「Peter Gordon」が「Study of obscure Amazon tribe sheds new light on how language affects perception」と発表するなど、検証が続いています。グーグ・イミディル語については、「オーストラリア原住民語の世界」からどうぞ。

ポール・ケイについては「Paul Kay” s Home Page」をどうぞ。「Construction Grammar」からの情報も気になるところ。

あと、「サピア=ウォーフ仮説再考」がお薦め。


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丼助

「言葉が違えば考え方も違う」
そう思ったのは、子供の勉強を見た時の事(非読書家) ^^;
国語の問題文の中で、表・裏や奥に当たる表現が無いと言っていた。
物の名前以外でも日本語から英語に取り込まれていってもいい言葉が色々あるのではないかと思った。


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ペイ@名古屋

自分は『「現実の世界」は言語習慣の上に形作られる』に、潔さを感じます。
英国人と日本人は100%は解かり合えない。
でも70%までは行けるかも知れない。それで良いじゃないかと。0か1ではなくて。
相互理解の前提には「違い」と「諦め」が無いと、宗教戦争が起こるのだと思います。


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tom

もしかしたら、当たり前すぎる考え方なのかもしれませんが、私は、思考が言語を制約するのだと思います。
(思考の必要性が言語化される動機になる)
アラビア語では『座っているラクダ』、『眠っているラクダ』などがそれぞれ違う単語としてあるそうですが、彼らの生活にラクダが深く関係しているからこそ、それぞれの状態を表す単語が発明されたのでしょう。
日本では、『ハマチ』、『ブリ』などの出世魚などが典型例だと思いますし、英語では『ロース』『ヒレ』など区別があるのに対し日本語では『牛肉』だけなのも、言葉が思考を支配するというより、思考(関心)が言葉を規定しているという方が素直な考え方なのだと思います。
言語が思考に影響を与える事が無いとは言えないと思いますが、思考にそぐわない言葉というのは根付かないでしょうし、状況変化などによって生活に合わなくなった言葉は廃れていくのだと思います。


[…] の著書を読んだとき以来、言葉が人間に与える影響について、ずっと考えてきた。サピア=ウォーフ仮説って、1980年代くらいにはほとんど見捨てられていた、と上記の文章にあった。そ […]




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 心理学に「パンダ、サル、バナナ」から仲間二つを選ぶ実験がある。日本人ならサルとバナナを選ぶ人が多いのではないだろうか。中国人もそうだ。これがアメリカ人だと、パンダとサルが多くなる。欧米人はものごとをカテゴリー化してとらえるのに対して、東洋人は関係性や文脈に注目するという。 これをもってあなたは西洋タイプ、東洋タイプと遊んでもいいけれど、むしろ重要なのは、両者が違う世界の見方をしていると気づくことだ。同じ桜を見て「きれいだね」とうなづきあったとしても、一方は古寺を背景とする色合いを誉め、一方はやがて散るはかなさゆえの輝きを愛でているかもしれない。 心理学の戸田正直氏が提唱し、人工知能分野でも知られている思考実験に、キノコ喰いロボットというのがある。キノコを食べて自活するロボットをある惑星に送ったとき、どのような要素が必要になるか、という問いだ。キノコを見分ける能力、キノコのある場所を推測する能力などはもちろんだけれど、より難しいのは、自分がどれだけのキノコを食べていいかというルールだろう。 キノコは有限だ。一体のロボットからすれば食べたいだけ食べる方が有利だけれど、みんながそれをするとキノコが無くなり滅亡する。それに近い経験を経て、やがてロボット社会にはキノコを食べ過ぎると森の神が怒るといった神話が生まれたり、遠慮につながる感情が生じるかもしれない。こうして惑星に適応していくために、社会制度や個人の心理が築かれていく。 東洋と西洋の違いを生んだのはどんな自然環境、社会環境だったか。何千、何万年の過去に思いをはせるとき、ぼくたちは少し、相手に対して優しくなれる。この瞬間の違いを取り立てるより、互いが違う世界を見ていると知った上で、ともに生きていく。同じ桜を前に違う意味で「きれいだね」と言ったとしても、互いを受け容れていれば、肩寄せ合うひとときはあたたかい。

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 地元集落の隣接地に自動車解体工場が建設されることになり、ごたごたしていたのだった。リサイクル法によって地域への配慮がなされるようになっているとはいえ、何も里山の地にわざわざという思いがある、一方で住民自身、車がないとやっていけない日常を送っている。いわゆるNIMBY問題である。 ニンビー。Not In My Back Yardの略。ゴミ処理場など、地域住民にとって望ましいと思えない公共施設をどう設置するか、という問題だ。NIMBY症候群という呼び方もあり、一時は地域エゴといった否定的なニュアンスを含んでいたようだ。でも、必要性はわかるけどウチの庭にはやめてよ、という感覚は、誰もが共有できるものを持っている。 ではそれをどう解決するのか。地域に負担だけおしつけて自分たちは受益のみを享受する、いわゆるフリーライダーを防ぐことはもちろん重要なポイントのひとつ。もうひとつ重要だと思ったのは、地域内での合意形成のあり方への着目だ。補償金などで地域の願いを汲み取るというだけではなく、そうした意思決定の過程そのものに地域住民の参加を得る。結果より過程の重視。 思い出したのは、ブータンでは国民総生産ではなく、国民総幸福の増大を掲げているという話。同国での指標作りはこれからだけれど、幸福に関する研究をこのところよく目にする。幸福感を生むには、ある程度までの金銭的余裕は必要だが、一定水準を超えると富の増大とは相関しない。選択肢が増えるとむしろ幸福感が減衰するという事実は以前コラムでもとりあげた。政治面からは、ブルーノ・S・フライらが『幸福の政治経済学』で、政治への参加の権利が保証されていることが、幸福感につながっていると指摘している。 思えばごく身近な日常でも、もっとも辛いと感じるのは、自分の声がどこにも届かない、届かせる場さえないというときではなかったか。そこに聞く人がいるということは、それだけで幸福なことなのだ。

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